天照玉命(あまてるたまのみこと)神社

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、地元で天照(てんしょう;てんしょ)さんとも呼んで、京都府福知山市今安(いまやす)に鎮座して、古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が主祭神で、天照神(あまてるかみ)を祭る近畿地方を中心とした他の神社と少し事情が違う。
僕は歴史研究で、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社を早くに見つけて、大人になってから初めて参ったのが2008年頃で、幼少から参った記憶がなく、2017年から5年間を毎年1月に参拝し続けて、2022年1月が参拝しないで、夏頃に参拝したはずで、2023年が1度も参拝してないはずで、2024年元旦の午前8時40分頃に参拝して、2025年元旦の午前10時15分頃に参拝して、その後に阿光照(あこうしょう)神社にも参拝した。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の記録は、福知山市大門(だいもん)に暮らした故・田辺弘さんの著書の『ひっぱり壁』に基づく所が多々ある。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の近くにある京都府福知山市半田(はんだ)の阿光照(あこうしょう)神社は、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の元の神社で、福知山市半田(はんだ)から福知山市今安(いまやす)に遷宮して、今に至ると伝えて、阿光照(あこうしょう)神社の名前が天照玉命(あまてるたまのみこと)の名残(なご)りと考えられる。
平安時代中期の地名辞典『和名抄(わみょうしょう)』は、「天田郡(あまだぐん)和久郷(わくごう)」が福知山市和久寺(わくでら)で、「天田郡(あまだぐん)拝師郷(はいしごう)」が福知山市拝師(はいし)で、福知山市今安(いまやす)が和久郷(わくごう)か拝師郷(はいしごう)のどちらか不明で、天照玉命(あまてるたまのみこと)の元宮の阿光照(あこうしょう)神社があった福知山市半田(はんだ)が和久郷(わくごう)の地域区分に属すると考えられる。
ちなみに『和名抄(わみょうしょう)』は、天田郡(あまだぐん;福知山市)を10個の郷(ごう;さと)で分割して記して、それが一番古い古代地名で、福知山市今安(いまやす)が和久郷(わくごう)か拝師郷(はいしごう)のどちらに属したか不明で、京都府福知山市半田(はんだ)の阿光照(あこうしょう)神社が天照玉命(あまてるたまのみこと)の古い記録の和久郷(わくごう)に属すると考えられる。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、和久庄(わくしょう)にあるため「和久(わく)神社」とも書くが、福知山市今安(いまやす)が和久郷(わくごう)に属するか不明で、歴史学の専門家に調べてもらって、雨乞(あまご)いの神として、「雨乞(あまご)いの宮」や「雨の宮」とも称して、地方の里唄(さとうた)で、「和久の(わく)の天照(てんしょ)は雨の宮、雨がほしくば天照(てんしょ)へまいれ」と歌う。

丹波忠重朝臣(たんばのただしげのあそみ;誕生日不明の西暦1144年3月17日没)は、平安時代後期の官人や医者や楽人(がくにん;雅楽を演奏する人)で、彼の和歌が「大江山(おおえやま) 昔(むかし)のあとの 絶(た)えせぬは 天照神(あまてるかみ)も あわれとや見(み)む」で、古代の男性の太陽神である天照神(あまてるかみ)を詠(よ)んで、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社や京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社などを指す。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の東北は、右手に烏ヶ岳(からすがたけ)で、左手に鬼ヶ城(おにがじょう)が見えて、夏至の日に天照玉命(あまてるたまのみこと)神社から見ると、烏ヶ岳(からすがたけ)と鬼ヶ城(おにがじょう)の間ぐらいから太陽が昇って、この2つの山の延長線上に穴裏峠(あなうらとうげ)があって、ここに太陽が沈むと言われる。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝は、成務(せいむ)天皇時代に天照神(あまてるかみ)を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏出身の大倉岐命(おおくらきのみこと)が福知山市半田(はんだ)の元宮の阿光照(あこうしょう)神社に祭って、正しく求めると神功(じんぐう)皇后の時代に祭って、西暦260年代から290年代頃と考えられる。
その後は、戦国時代の荒廃と混乱で、一時期に衰退して、承応(じょうおう)2年(1653年)に福知山藩主の松平忠房(まつだいらただふさ)が崇敬(すうけい)の念が篤(あつ)くて、同年11月(12月頃)に荘厳(そうごん)な本殿と拝殿を建立(こんりゅう)したが、江戸時代前期に元宮の阿光照(あこうしょう)神社から遷宮したか不明である。
現在の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の建物は、大正9年(1920年)に氏子の寄進で、3年の年月をかけて再建して、本殿の西に現存する校倉造(あぜくらづくり)の宝庫が享保(きょうほ)14年(1729年)の造営で、非常に高い文化資料である。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の主祭神は、正式名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひのみこと)で、天照神(あまてるかみ)と2代目・火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)の3神が合体した神名で、3神とも男性の古代太陽神である。
天照神(あまてるかみ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化して、2代目・火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、僕自身が彦坐王(ひこいますのみこ)も天照神(あまてるかみ)に神格化したと考えて、天照神(あまてるかみ)の事情が異なる。
2代目・火明命(ほあかりのみこと)は、海部(あまべ)氏の祖先神で、饒速日命(にぎはやひのみこと)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神で、彦坐王(ひこいますのみこ)が氏祖(しそ)で始祖(しそ)でもある。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の主祭神の2代目・火明命(ほあかりのみこと)は、五穀豊穣の神様でもあって、穂赤熟(ほあかり)と書き換えると、豊作の神様の意味合いになって、言霊(ことだま;言葉の魂)でつながる。

京都府福知山市大江町の元伊勢内宮は、富士山の山頂と出雲大社を結んだレイライン(太陽の道)上にあって、富士山を測量した西暦255年以降にできて、西暦260年代から290年代頃に天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と共に大倉岐命(おおくらきのみこと)が創建したと考えられる。
国宝『海部(あまべ)氏系図』と照合した大倉岐命(おおくらきのみこと)は、景行(けいこう)天皇時代から神功(じんぐう)皇后時代の人物と考えられて、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の伝承が正しい可能性が高い。
しかし天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の問題は、天照神(あまてるかみ)の神名で大倉岐命(おおくらきのみこと)が3世紀後半頃に祭って、天照神(あまてるかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した点である。
神功(じんぐう)皇后が亡くなったのは、西暦329年の4世紀前半で、倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を天照神(あまてるかみ)に神格化したのが古代中国と外交を再開した西暦413年以降で、『三国志・魏志倭人伝』を読んで日本神話を作って、日本神話が成立したのが5世紀中と考えられる。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の天照神(あまてるかみ)は、1世紀後半から2世紀前半の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、今安(いまやす)に祭ったのが3世紀後半で、西暦163年生まれの倭姫命(やまとひめのみこと)と228年頃生まれの神功(じんぐう)皇后の2人を神格化したと考えられない。
『ホツマツタエ』の天照神(あまてるかみ)の神話は、全て倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の物語を神話化して、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の天照神(あまてるかみ)がそれより古い時代の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したのを証明した。
「天照(あまてる、あまてらす)」の称号は、最高神で太陽神としての最高の称号で、天照神(あまてるかみ)と天照大神(あまてらすおおみかみ)が至高の存在感を持って、それに神格化した彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人を特別視して当然である。

彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の直系子孫で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)を襲名した竹内(たけうち)氏と古代の武家の阿倍(あべ)氏など、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏と親戚の尾張(おわり)氏、このような古代太陽神氏族をまとめて、僕が総合して和珥(わに)氏と定義して、あまりにも多すぎて把握しきれない。
古代太陽神氏族の和珥(わに)氏は、始祖の彦坐王(ひこいますのみこ)があまりに偉大な人物と評価して、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社を創建した直系子孫の大倉岐命(おおくらきのみこと)が祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと)の正体をたどって、間違いなく彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと証明した。
『ホツマツタエ』の天照神(あまてるかみ)は、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の天照神(あまてるかみ)と別物で、神格化した人物も時代も全く違って、それに気付いた僕の感性が特別で、歴史上で類稀(たぐいまれ)な超天才だから当然である。 天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、福知山市で3本指に入る古社で、実在系譜の先祖と子孫を証明して、御神体が仏教伝来より後の社殿でなく、古代信仰の神社と考えられて、巨大な岩を御神体として祭った可能性などが考えられる。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の御神体は、あくまで想像にすぎないが、古代信仰の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の伝承を伝えて、『ホツマツタエ』をも上回る古代の伝承をひもといた僕が偉大すぎる。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、かつて僕の暮らす福知山市大門(だいもん)など下豊富(しもとよとみ)の幾つかの地区を氏子として、奉納相撲(ずもう)や雨乞(あまご)いなどの神事を行なわれたと記録に残る。
今は地域の人たちが集まる小さなお祭りをして、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の封印が解かれて、忘れられた歴史が復活して、かつての氏子たちに呼びかけて、昔の神事を復活するのも良いと思う。
僕は大門(だいもん)に生まれて、今安(いまやす)に天照玉命(あまてるたまのみこと)神社で、大江町に元伊勢内宮が祭られて、僕が天照神(あまてるかみ)と天照大神(あまてらすおおみかみ)のご加護を受けたのが必然で、来るべき時が来たから封印が解けた。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社は、天照神(あまてるかみ)を祭る神社でも倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后でなく、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した数少ない貴重な神社で、後世に渡って重視する。
僕の偉大さは、この程度のことを求めることなど造作もなく、古代と現在の太陽神のご加護がある福知山市に生まれて、2025年3月17日の午前9時半頃に修正し終えた。

<参考文献>
『ひっぱり壁』
田辺弘・著者 株式会社オカムラ・発行
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝
インターネットの不明サイトから少々拝借

戻る