熱田(あつた)神宮

熱田(あつた)神宮は、愛知県名古屋市にあって、天皇家に縁(ゆかり)の大切な神社で、熱田神(あつたかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を鎮魂する神社である。

『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇53年に以下のように記す。
昔の教えにこうあって、『人は神であり、神は人である。神の名はその神の業績をほめ讃(たた)えたものである。神は人として道を立てる。人は素直な心でホツマの教え(『ホツマツタエ』に記された数々の教え)のままに生きれば、死後に真(まこと)の神となる』と。
神のお告げによって、ヤマトタケをアツタカミ(熱田神)として祭って、ミヤズヒメが伊勢の宇治宮(うじのみや)の斎宮(いつきのみや)に準じて神のそばに近くお仕えして、神主も宮司並みの位(くらい)と定めた。

日本武尊(やまとたけのみこと)が亡くなった仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)以降に熱田(あつた)神宮が創建されて、熱田(あつた)神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)が日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化して、妾(めかけ)の宮簀媛(みやずひめ)が伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)に準じる神主の位(くらい)になった。
『ホツマツタエ』の時代は、斎王(さいおう)の下が神主と宮司が同等の位(くらい)で、貴重な神官の位(くらい)の記述である。

アツタカミ(熱田神)は、日本武尊(やまとたけのみこと)の死後の諡号(おくりな)で、熱田神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)に当たると考えられて、今の熱田大神(あつたのおおかみ)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を指すのが間違いで、『ホツマツタエ』から熱田(あつた)の語意が熱(あつ)さを養(た)すで、日本武尊(やまとたけのみこと)を戦死させた義娘(ぎじょう)の神功皇后が付けた諡号(おくりな)と考えられる。
ヤマトタケは、辞世(じせい)の句を詠(よ)んで、これの題材がアツタノリ(熱田宣)で、アツタノリ(熱田宣)の語意がタマ(魂)の故郷(ふるさと)のアモト(宇宙の中心)に戻るためにアメ(天)に伝わり昇って行き待つで、ヤマトタケをスサノヲに神格化して、スサノヲがしたツガリアビキ(連雁天引き)の祭りを意識したと考えられる。
ツガリアビキ(連雁天引き)の祭りは、ヤマトタケの家臣のマチカ(左近)とテチカ(右近)が戦死したオトタチバナヒメ(弟橘姫)が身に着けた櫛(くし)と帯(おび)を持って、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、嘆(なげ)き悲んで、オトタチバナヒメ(弟橘姫)のためにツガリアビキ(連雁天引:雁がつながって天を引くように、御霊を天国に届ける)の祭りをして、アツタノリ(熱田宣)がこれを意識したと考えられる。
しかしヤマトタケは、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)で戦死して、辞世(じせい)の句を詠(よ)んでないため、後世の作り話としか考えられない。
景行(けいこう)天皇の皇后ハリマイナヒヲイラツメ(播磨稲日大郎女;八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を祖先化)は、亡くなった時にアツタノリ(熱田宣)で葬儀して、八坂高依姫(やさかたかよりひめ)の死去より後世のヤマトタケの死去の出来事がアツタノリ(熱田宣)で、『ホツマツタエ』の時系列が矛盾すると超天才の僕にしか求められない。

仲哀天皇5年9月(西暦256年10月頃)に小止与命(おとよのみこと)は、尾張国造(おわりくにみやつこ;愛知県西部の国主)に任命して、娘の宮簣姫(みやずひめ)と孫(宮簀媛(みやずひめ)の甥;おい)の尾綱根命(おづなねのみこと)が愛知県に行ったのが西暦255年以降で、宮簣姫(みやずひめ)が熱田(あつた)神宮の神主になったのが260年の日本武尊(やまとたけのみこと)の死後である。
尾張(おわり)氏の始祖は、彦坐王(ひこいますのみこ)で、氏祖(しそ)が海部(あまべ)氏と分かれた最初の人物の尾綱根命(おづなねのみこと)で、祖父の小止与命(おとよのみこと)と娘の宮簀媛(みやずひめ)と孫の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張(おわり;愛知県西部)にいた史実(歴史上の事実)で確認できると考えられる。
西暦255年以前は、海部(あまべ)氏が尾張(おわり;愛知県西部)にいなくて、255年に海部(あまべ)氏と尾張(おわり)氏が分家したことが証明できて、尾張(おわり;愛知県西部)の元伊勢を否定して、元伊勢と尾張(おわり)氏を結び付けたのが真実で、僕の自論が間違いないと考えられる。

熱田(あつた)神宮の創建は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)と伝えるが、『ホツマツタエ』のミヤズヒメが熱田(あつた)神宮の初代の神主で、ミヤズヒメが仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)以前に愛知県東部にいた証拠がなくて、創建時期が特定できない。
熱田(あつた)神宮は、西暦260年から290年頃に宮簀媛(みやずひめ)が初代の神主として創建して、日本武尊(やまとたけのみこと)に縁(ゆかり)の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納したのが仁徳(にんとく)天皇の即位した西暦334年よりも後と考えられる。
神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を三種の神器からはずして、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を三種の神器に加えて、日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で、宮崎県から奈良県に東征した仁徳(にんとく)天皇は、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に即位して、それ以降に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を熱田(あつた)神宮に奉納して、元暦(げんりゃく)2年・寿永(じゅえい)4年3月24日(1185年4月25日)に源平合戦の壇ノ浦(だんのうら)の戦いで、海に沈んで今が代用品と伝えて、それ以前の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納した神社が元伊勢や伊勢神宮内宮と考えられる。

熱田(あつた)神宮は、宮簀媛(みやずひめ)が初代の神主で、創建時期も祭神も『ホツマツタエ』とネット記事などから超天才の僕が特定して、2025年2月13日の午後2時10分頃に修正した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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