出雲の建国神話

『出雲国風土記』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)は、国を作るのに出雲国が小さすぎるので、各地から引いて来て継ぎ合わせて、継ぎ足された所が島根半島の部分である。
西端の杵築(きづき)の御埼(みさき)は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)から、その間の闇見(くらみ)の国と狭田(さだ)の国がそれぞれ北門(きたど)の良波(よなみ)国と北門(きたど)の佐伎(さき)国から、最後に東端の三穂埼(みほのみさき)が北陸から引いて来た。
この時に命(みこと)は、引っ張った綱(つな)をかけた杭が火神岳(ひのかみたけ;現在の大山(だいせん)で、持って引っ張った綱(つな)が夜見島(よみのしま;鳥取県の弓ヶ浜(ゆみがはま)半島)になって、命(みこと)が国を引くのを終えて、杖(つえ)を突いて、意宇(おう;島根県意宇(おう)郡)と言うようになった。


昔々に出雲の創造神の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲の国を見渡して、「この国が細長い布のように小さい国で、どこかの国を縫(ぬ)いつけて大きくしよう」と思った。
そこでどこかに余分な土地は、ないかと海の向こうを眺めると、新羅(しらぎ)と言う国に余(あま)った土地があった。
命(みこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、幅(はば)の広い大きな鋤(すき)を使って、大きな魚を突き刺すようにぐさりと土地に打ち込んで、その魚の身を裂いて、切り分けるように土地を掘り起こして切り離した。
そして三つ編みにした丈夫な綱(つな)をかけて、「国来(くにこ)、国来(くにこ)」と言いながら、力一杯引っ張ると、その土地の川船がそろりそろりと動くようにゆっくりと動いて来て、出雲の国にくっついた。
こうして合わさった国は、杵築(きづき)の御碕(みさき;出雲市小津町(こづちょう)から日御碕(ひのみさき)まで)になった。
その時は、引っ張った綱(つな)をかけた杭(くい)が佐比売山(さひめやま;現在の三瓶山(さんべさん)で、その綱(つな)が薗(その)の長浜(ながはま;出雲市の神戸川(かんどがわ)河口から出雲市湖陵町(こりょうちょう)の差海川(さしみがわ)河口までの8kmの海岸)になった。
その後も命(みこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、北の方の国から同じように狭田(さだ)の国(出雲市小津町(こづちょう)から島根県八束郡(やつかぐん)鹿島町(かしまちょう)佐陀(さだ)まで)と闇見(くらみ)の国(松江市島根町の辺り)を引っ張って来てつないで、最後に北陸地方の高志(越;こし)の国から引っ張って来た国が三穂埼(みほのみさき;松江市美保関町(みほのせきちょう)の辺り)になった。
この時に命(みこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、引っ張った綱(つな)をかけた杭が伯耆国(ほうきのくに;鳥取県西部)の火神岳(ひのかみたけ;現在の大山(だいせん)で、持って引っ張った綱(つな)が夜見島(よみのしま;鳥取県の弓ヶ浜(ゆみがはま)半島)になった。
そして命(みこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、「国を引くのを終わった」と言って、杖(つえ)を突いて「意恵(おえ)」と言ったので、その地を意宇(おう;島根県意宇(おう)郡)と言うようになった。


出雲の建国神話は、崇神(すじん)天皇12年9月16日(西暦95年10月中旬頃)に初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を実弟の崇神(すじん)天皇に報告した神話で、物部(もののべ)氏の子孫を水神(海神)に神格化した証拠でもあって、「記紀」に記さない地方の島根県の神話である。

初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の始祖(始まりの先祖)で、息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が西暦120年代から130年代頃に生まれて、出雲王国が仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に崩壊(物部(もののべ)氏が全滅してないため、崩壊と表現する;出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化)して、物部(もののべ)氏の子孫が現在の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏で、超天才の僕しか特定できなかった。
島根県意宇(おう)郡(島根県松江市から安来(やすぎ)市にかけて)は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖である物部(もののべ)氏が松江市を本拠地として、後に出雲市へ移住したと考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が証明して、史実・真実・事実である。

『出雲国風土記』の国引き神話(出雲の建国神話)は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が出雲の建国をして、「記紀」に出雲の建国神話がなくて、2024年4月4日にクリニックまほらの診察から帰宅して、その後でネット検索して記した。
八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)は、『古事記』で須佐之男命(すさのおのみこと)の4世孫の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と同一神で、孫が2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)で、系図が混乱して求められず、滅茶苦茶になった。
八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲の創造神で、巨神(巨大な神様)で、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)が大水(おおみず)の意味で、洪水(こうずい)と関係して、物部(もののべ)氏の直系子孫が水神(海神)に神格化したことも証明した。

『ホツマツタエ』のシマツヒコ(嶋津彦;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、伝説的な舟の創始者で、子孫が船作りと海運に優秀な一族で、彦坐王(ひこいますのみこ)から始まる古代太陽神氏族の物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏なども海洋氏族で、軍船を保有した武家でもあって、2024年9月頃のもみじヶ丘病院の任意入院中に求めた。
カナサキ(金析;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、ナカクニ(中国;現在の近畿地方にほぼ匹敵)のクニカミ(国守)で、3代目出雲国王としてイサナキ(伊弉諾;垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイサナミ(伊弉冉;3人の皇后を神格化)の夫婦神の国家再建に尽力して、アマテルカミ(天照神;景行(けいこう)天皇を神格化)の即位でも活躍した。
カナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、アマテルカミ(景行(けいこう)天皇を神格化)の名代(みょうだい)として、ツクシ(筑紫;九州)全土を統治して、景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)以降に九州全土を監視したと考えられる。
カナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、和歌が得意で病気知らずで、これ故(ゆえ)にイサナキ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイサナミ(日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)から娘のワカヒメ(和歌姫;大中姫(おおなかひめ)を神格化)が厄年(やくどし)生まれで、他所で育成を望まれて、カナサキに養育を任(まか)されて、その縁(えん)がハヤアキツヒメ(速秋津比売;高田媛(たかだひめ)を神格化)の景行(けいこう)天皇との結婚につながった。
カナサキ(野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の息子の物部十市根(もののべのといちね)は、正妻がワカヒメ(大中姫(おおなかひめ)を神格化)で、カナサキとワカヒメが互いに和歌が得意で、特にワカヒメ(和歌姫)が和歌の女神として有名で、和歌山県の県名の由来である。
和歌山市南西部の景勝地の総称である和歌浦(わかのうら)は、奈良時代以前は「弱浜(わかのはま;よわはま)」と記して、西暦724年にここを訪れた聖武(しょうむ)天皇が「弱浜」を「明光浦」(あかのうら)と呼ぶ詔(みことのり;天皇の言葉)を出して、聖武(しょうむ)天皇と共に訪れた歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が『万葉集』で「若浦(わかのうら)」と詠(よ)んで、豊臣秀吉が和歌山城を建てさせて、和歌山県の県名の由来と言うが、ワカヒメ(和歌姫)の神名の方が古い。
野見宿禰(のみのすくね)は、3代目出雲国王を引退後に垂仁(すいにん)天皇の補佐(ほさ)で、近畿地方の国守になって、その後に景行(けいこう)天皇の名代(みょうだい)で、九州全土を監視したと考えられる。

出雲の建国神話は、ネット検索で全て記して、「記紀」に記さない出雲だけの日本神話で、僕の超頭脳(超感覚)が見事にひもといた。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借

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