究極の超天才の僕と現代人(僕以外の全ての人間)の差
究極の超天才の僕は、人類史上で最大最強最高の究極の考え方を持って、考え方と神様が人類の究極のテーマと言って良くて、それらを僕が求めた超感性を根本的に現代人(僕以外の全ての人間)が理解できない。
考え方と神様は、僕が自分自身で常に自問自答して、自分の考え方を何度でも疑って、世界中のネット情報や参考本などのデータベース(僕の基礎知識や資料)も疑って、一生懸命に求め続けた。
他人を寄せ付けず孤独に生きてきた僕は、孤独に考えること…独創性を豊かにして、恵まれた環境の中で独自の考え方を体得して、自然に答えを導き出した。
人間誰しもが考え方は、孤独でも一緒でも色々な考え方を生み出すが、独創性の発達が一人の孤独な考え方で伸びて、歴史上の天才の多くが孤独に考えて、たどり着いた結果だった。
僕は考え方の哲学の現代哲学理論「現象学」を証明して、僕のコペルニクス的展開(非常識な考え方の集合体)「自己認識の再構築」を定義付けて、ノーベル物理学賞受賞者の中村修二博士と僕のよく似た考え方を分析して、僕の考え方や他の人間の色々な考え方を分析して、考え方の根本的な定義付けを多くした。
人類史上最高の超天才の僕は、人間の考え方を根本的に見つめ直して、後世の人間の教本になる考え方を分析・研究で残して、後進の育成まで考えたわけでないが、結果的に後世の教科書になるだろう。
僕は神様が人間で、人間が神様で、生きていても死んでいても人を神様に神格化して、実在する物も神格化して、神様が理性と感情と心と無意識と深層心理などが関係するが、日本神話の神々の神格化を証明して、世界中の神話や神様を関連付けた。
このような僕の偉業は、歴史上で類稀(たぐいまれ)な超頭脳・超知識の上に作り上げられて、誰もまねできない経験や障害者だからできて、元々の才能だけでなく、才能の上に胡坐(あぐら)をかくことなく、必死に努力し続けて、歴史研究人生経験を蓄積して、頑張った結果である。
僕は歴史研究を始めた時、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を合致して、自分の歴史研究の基礎になると予想しなかったが、「きっかけ」がどこにでも転がって、僕が気付くと史料と知識が圧倒的に発展して、飛び立つ瞬間を待ち続けた。
『三国志・魏志倭人伝』は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の属国の北九州4ヶ国を末盧国(まつろこく)から不弥国(ふみこく)と記して、距離や方角から僕の自論の簔生(みのふ)から筑城(ついき)までが正しくて、専門家(考古学界と歴史学会)の定説の佐賀県松浦(まつうらぐん)郡から福岡県糟屋郡(かすやぐん)宇美町(うみちょう)まで、距離や方角が滅茶苦茶で、子供のお遊びレベルである。
『三国志・魏志倭人伝』の登場人物は、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)と男弟(だんてい)と男王(だんおう)で、日本神話の三貴子(みはしらのうずのみこ)に神格化して、『三国志・魏志倭人伝』を読んで、4世紀後半から5世紀中に日本神話を作った可能性が高くて、日本神話を完全解釈した超天才の僕がたどり着いた真実である。
伊勢神宮内宮の横を流れる五十鈴川(いすずがわ)を神格化した蛇神の滝祭神(たきまつりのかみ)は、それを怪物視したのが邪神の八岐大蛇(やまたのおろち)で、滝祭神(たきまつりのかみ)も八岐大蛇(やまたのおろち)も蛇体の古代太陽神と証明して、非常に簡単な結論である。
出雲大社の龍蛇神(りゅうじゃしん)は、背黒海蛇(せぐろうみへび)を神格化して、蛇体の古代太陽神なのが明白で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の出雲国王を神格化)も蛇体の古代太陽神で、超天才の僕が日本神話を完全解釈して、色々な共通性を導き出した。
このように僕の考え方は、現代人(僕以外の全ての人間)の誰も思い付かない奇跡(軌跡;きせき)で、超天才の僕があまりに超越した特別な実力で、それを遺憾(いかん)なく発揮して、ひれ伏すほどの偉大さか思い知らせて、誰もが崇(あが)める神様のような存在になった。
『ホツマツタエ』のスサノヲ(日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、息子を初代・オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、初代から数えての6世孫が7代目・オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)として、これが「記紀」の混乱を生み出した。
「記紀」の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、息子か6世孫を大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と飯入根(いいいりね)を神格化)として、初代と7代目の大物主神(おおものぬしのかみ)や初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ)に当たるからで、大物主神(おおものぬしのかみ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)が同一神でもある。
スサノヲ(日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の息子は、初代・オオモノヌシと初代・オオクニヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、正しく求めると彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫が日本武(やまとたけ)天皇で、神格化の立場が逆転して、これが日本神話の普通の偽装工作である。
初代・オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の6世孫の7代目・オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)は、初代・オオクニヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から数えて、6世孫の2代目・オオクニヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)で、スサノヲ(日本武(やまとたけ)天皇を神格化)から数えて、7世孫が2代目・オオクニヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)になる。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の一人娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)は、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、義理の息子が正しくて、直系の息子が間違いで、超天才の僕が日本神話を長年の研究・分析で、特定して作り上げた神技(かみわざ)である。
誰にも理解されなくても僕は、自分が正しいと信じる思いを大切にして、人間が本能的に恐(おそ)れて、踏み込まない忌(い)み嫌う物(宗教や神様やUFOや未確認生物や幽霊や超能力や超古代文明などの禁忌とする非日常)を研究して、それを克服することで、僕が超越したと考えられる。
2002年10月頃に僕が歴史研究を開始した時は、日本神話の神々の領域…神域に踏み込んで求めて、後に古代文字の神代(しんだい)文字や古史古伝(「記紀」に反する書物)などの非日常を当たり前(常識)で、研究拡大した結果として、今の一大理論を作り上げた。
僕は人生経験で、何度も非日常(本能的に人間が忌(い)み嫌う物)を受け入れて、それが歴史研究に大きな影響を与えて、僕が自殺願望と殺人願望を持つと公言して、自分のプライベートも含めて多く公表して、自分を理解してもらうことを最優先にする。
だからこそ僕は、誰にも理解されなくても多くを公表して、少しでもマイノリティ(少数派)やマジョリティ(多数派)の賛同者を集めて、僕の協力者を求めて足掻(あが)いて、どんなに小さな「きっかけ」でも、いつか大きなうねりを生み出すと信じて、革命や革新に繋(つな)がるはずである。
哲学者エドムント・フッサールの現代哲学理論「現象学」は、僕の再定義したコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を説明する最高の理論で、コペルニクス的転回が地動説と進化論と相対性理論と僕の歴史研究の4つに共通する高度な考え方で、超天才の僕の考え方が非常に高度な物と位置付けられた。
現代哲学理論「現象学」は、「当たり前(常識)だと思うことを疑う」と教えて、人間の持つ常識そのものを疑って考えて、常に僕が自分自身で、何度も自問自答して、自分の考え方や記した物や他人の考え方などを分析・研究して、そのたびに色々な結論に至って、必死に考え続けて、結論を出した。
僕のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)「自己認識の再構築」は、自分の考え方を自分で分析して、自分で名付けた物で、頭の中に思い浮かべる常識・固定観念・先入観・理屈・伝統を意図的に排除して、新しいイメージや情報を作り上げる能力で、考え方が直感だから、根本的に説明するのが難しい。
僕が証明した現代哲学理論「現象学」やコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)などは、いつの日か現代人(僕以外の全ての人間)に認められて、常識そのものを常に疑って、考える究極の考え方にたどり着いて、中国の故事の「矛盾(パラドックス)」がコペルニクス的転回の本質と気付いて、いつか世界中の学校教育で、僕の考え方を教えてほしいと思う。
人間の考え方の究極は、全ての考え方の答えそのもので、理論的に求めると、完全な答えがないのが正しくて、僕が常識・固定観念・先入観・理屈・伝統を排除して、現代哲学理論「現象学」を完全に分析して、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を再定義して、全て自分の考え方が究極に至るためである。
数学は明確な答えがなくて、インドでゼロの概念が発見されるまで世界中になく、小数点が割り切れないなど、数学も完全な答えがなくて不明瞭で、国語が複数の答えを持つように、分析・研究しても答えのない学問が確実に存在する。
学問はどんな物でも、完全な答えがなくて、その学問を考える人の思考パターンが変化して、明確な答えも変化し続けて、最終的に人間の考え方が全て、正しいか間違いかの二択も思い込みで、人間の考え方の全てが思い込みで成立する考え方で、現代哲学理論「現象学」の「思い込み」の数だけ解釈がある結論になる。
つまり人間の思考パターンは、全て正しいか間違いかの二択が思い込みで、どんな考え方も思い込みでしかない結論で、究極的にそう定義付けられて、人間の考え方を全て知ると思い込んで、これを後世の人間の教本として、世界中の人々に僕の考え方を教えてほしい。
僕は歴史研究で、日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から武烈(ぶれつ)天皇33年(西暦506年)までの正しい年代を特定して、凡人(僕以外の全ての人間)が神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)までの嘘(うそ)の年代を信じて騙(だま)されて、超天才の僕の直感が特別で、正しい証拠である。
歴史学会(歴史書解釈)の定説の武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)は、凡人(僕以外の全ての人間)が正しいと信じた嘘(うそ)で、確実に騙(だま)す目的で作られた年代で、僕の自論の武烈(ぶれつ)天皇33年(西暦506年)が嘘(うそ)の年代を修正し続けて、圧倒的な理由で、導き出した正しい年代である。
倭王(わおう;古代の日本王)武(ぶ)は、南朝宋(そう)王朝の昇明2年(西暦478年)と南朝斉(せい)王朝の建元元年(西暦479年)が雄略(ゆうりゃく)天皇22年(西暦478年)と雄略(ゆうりゃく)天皇23年(西暦479年)で、南朝梁(りょう)王朝の天監元年(西暦502年)が武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦502年)で、雄略(ゆうりゃく)天皇と武烈(ぶれつ)天皇の2人を一人と勘違いしたと凡人(僕以外の全ての人間)が信じた。
しかし昇明2年(西暦478年)は、武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦478年)で、建元元年(西暦479年)が武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)で、天監元年(西暦502年)が武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)で、倭王(わおう;古代の日本王)武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇時代の一人に収(おさ)まって、何が正しいか考える必要がない。
つまり僕の自論は、倭王(わおう;古代の日本王)武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇と武烈(ぶれつ)天皇の2人でなく、武烈(ぶれつ)天皇ただ一人と正しく認識して、凡人(僕以外の全ての人間)が「記紀」の編者(へんしゃ;編集した人)の偽装工作に騙(だま)されて、その偽装工作を信じた歴史学会(歴史書解釈)の嘘(うそ)も正しいと信じた二重の罠(わな)に嵌(はま)った結果だった。
僕は日本神話の神々の領域・・・神域を完全解釈して、常識・固定観念・先入観・理屈・先頭・拡大解釈から思い込みを排除して、思い込みを正しい物と間違った物に分別して、思い込みの正しい物を新しい情報と合体して、また思い込みを正しい物と間違った物に分別して、常に新しい思い込みの正しい物を作って、僕が歴史研究で、更新し続けた正しい情報の正体である。
思い込みの排除は、僕のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)「自己認識の再構築」の考え方を現代哲学理論「現象学」で証明して、「現象学」を考え方の哲学と再定義して、超高度な歴史研究と現代哲学理論を駆使する僕が凡人(僕以外の全ての人間)レベルの低脳でなく、現実離れしすぎた神レベルの超越者で、ノーベル物理学賞受賞者の中村修二博士とのよく似た考え方も、自己分析して教本とした。
思い込みの正しい物と間違った物は、意識して排除することで、新しくて正しい情報を選別し続けて、物事の確信部分に近づいて、真理に至る物で、発明王トーマス・エジソンの発明や20世紀最高の天才アルバート・アインシュタイン博士が相対性理論の考え方が生まれた閃(ひらめ)きやイエス・キリストの受けた天啓(てんけい;神の教え)などに当たると考えられる。
超高度な考え方のコペルニクス的転回の地動説と進化論と相対性理論と僕の歴史研究は、現代哲学理論「現象学」で説明できて、僕が細かく分析・研究して、僕の使うコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)「自己認識の再構築」も細かく説明して、後世の人々のために教本を作って、まさに神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)である。
孤独に考えること…独創性は、常識と非常識を受け入れて、現代哲学理論「現象学」やコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を正しく理解して、考え方そのものを疑って分析・研究して、常にどんなことも自問自答して、本能的な考え方を無意識でなく、意識して考えられるようになれば、超天才の僕の考え方に近づくことも夢でない。
現代人(僕以外の全ての人間)は、究極の超天才の僕が求めた超知識を使って、初めて正しい認識力と知識を体得して、古代天皇家の歴史を学ぶスタート地点に立てて、超天才の僕の認識力など全ての感覚に決定的な差があって、その格差を理解して、僕の考え方の後継者を育てられる可能性を示して、2025年4月1日に題名を変更して、5月8日の午前4時40分頃に修正した。
<参考文献>
『この一冊で「哲学」がわかる!』
編者・白取春彦 発行・株式会社三笠書房
インターネットの不明サイトから少々拝借
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