怨霊(おんりょう)

怨霊(おんりょう)は、祟(たた)りをもたらして怨(うら)む霊魂のことで、神道の考え方に基づいて霊魂を祭って、「魂振(みたまふり)」が霊魂を振り動かして活性化させることで、「鎮魂(みたましずめ)」が体から離れようとする霊魂を離れさせないことで、怨霊(おんりょう)の「みたましずめ」の力が弱まって、体から霊魂が離れて動き回る状態で、その霊魂を祭って、祟(たた)らないようにして、2025年4月23日の午後2時20分頃に修正した。

日本神話の神々の中で怨霊(おんりょう)の代表は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と軻遇突智(かぐつち)と火雷神(ほのいかずちのかみ)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)と父方の天照大神(あまてらすおおみかみ)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)と火酢芹命(ほすせりのみこと)などで、月読尊(つくよみのみこと)を含まなくて、古代天皇家の戦死者を神格化した。

邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日から7年前半(西暦156年7月上旬頃から158年前半)に狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の実兄妹が三重県熊野市か島根県松江市で焼死して、戦死したから怨霊(おんりょう)に神格化された。
2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と軻遇突智(かぐつち)と火雷神(ほのいかずちのかみ)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)を神格化して、この兄妹が内乱(皇位継承権争い)で焼死して、戦死したと判断される。
軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の墓(はか)は、三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社で、兄妹が焼死した場所が三重県熊野市か不明で、焼死して遺体がないから、古代信仰で岩を墓(はか)に見立てた可能性がある。

怨霊(おんりょう)の大物主神(おおものぬしのかみ)は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と子孫の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に当たって、詳細を省(はぶ)く。
軻遇突智(かぐつち)の別名の火産霊(ほむすび)は、火の神様を生み出す意味で、火の神様に神格化された物部(もののべ)氏の直系先祖の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、火産霊(ほむすび)と火雷神(ほのいかずちのかみ)が同一神で、火雷神(ほのいかずちのかみ)が黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に登場する。
『山城国風土記(やましろのくにふどき)』の火雷神(ほのいかずちのかみ)は、丹塗矢(にぬりや)に化(ば)けて、玉依日売(たまよりひめ)を身ごもらせた賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を祖先化)の父だが、狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫が誉田別尊(ほむだわけのみこと)で、神話化・神格化を正しく理解する必要がある。
『日本書紀』の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;磐之姫(いわのひめ)を神格化)は、父の事代主神(ことしろぬしのかみ;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)が丹塗矢(にぬりや)に化(ば)けて、母の玉櫛媛(たまぐしひめ;誰を神格化したか不明)を身ごもらせて、物部(もののべ)氏に共通した神話で、超天才の僕にしか特定できない。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)が行った地獄の黄泉国(よみのくに)まで追いかけて、地獄の食べ物を食べて、腐敗した妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の体を見て、恐怖で逃げ出した夫の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が地上の世界まで、坂道を登って逃げた。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;樺井月姫(かばいつきひめ)と日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)の夫婦は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の死後にアマテラスとツクヨミとスサノオの3姉弟を生み出した神話と、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が地獄の黄泉国(よみのくに)から帰って来て、片親で3姉弟を生み出した神話の2通りがあって、狭穂姫(さほひめ)を起点とした神話である。
汚(けが)れた地獄の黄泉国(よみのくに)は、内乱(皇位継承権争い)の倭国大乱(わこくたいらん;2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)を指して、黄泉国(よみのくに)の入り口が黄泉比良坂(よもつひらさか)の島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)か、三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社で、戦争の流血そのものを汚(けが)れと表現した。

月読尊(つくよみのみこと)は、景行(けいこう)天皇を神格化して、60年間の在位期間が干支(えと)の年月の60年周期を読んだ神名で、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に滋賀県の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、寿命で亡くなったと考えられて、怨霊(おんりょう)に神格化してない。

『三国志・魏志倭人伝』の男王(だんおう;日本武(やまとたけ)天皇)の反乱は、天皇不在の年(西暦251年)から日本武(やまとたけ)天皇が戦死した仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)までの期間である。
父方の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化して、天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)に三重県伊勢市の磯(いそ)神社で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺されて、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で、卑弥呼(ひみこ)を殺した男王(だんおう)に当たる。
伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化して、国賊の素戔嗚尊(すさのおのみこと)に殺されて、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話の真実で、殺されたために怨霊(おんりょう)に神格化した。

7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)は、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)の間に義父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に暗殺されて、殺されたから怨霊(おんりょう)に神格化した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、義娘(ぎじょう;義理の娘)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が命じた経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)などの軍勢に殺されて、殺されたから怨霊(おんりょう)に神格化した。

素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を一緒に祭る出雲大社は、物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)の初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)も祭って、先祖代々の出雲王家(物部(もののべ)氏)が伊勢神宮よりも高い本殿で祭って、祟(たた)りをもたらさないように大切に祭り続けて来た。
日本武(やまとたけ)天皇は、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)の息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の息子の天穂日命(あめのほひのみこと)、別天神(ことあまつがみ)の可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)などにも神格化して、これらも怨霊(おんりょう)と考えられる。

仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、火酢芹命(ほすせりのみこと)に神格化して、神武(じんむ)東征の国賊の長骸彦(ながすねひこ)に祖先化して、仁徳(にんとく)東征5年12月(西暦334年1月頃)に内乱(皇位継承権争い)で戦死して、殺されたから怨霊(おんりょう)に神格化した。
このように古代天皇家の怨霊(おんりょう)は、殺された人物に共通して、祟(たた)って怨(うら)む霊魂と考えられて、戦死者を挙例(きょれい)した。

丹波(たんば;古代の京都府北中部)国王の陸耳御笠(くがみみのみかさ)や吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王の温羅(うら)や熊襲(くまそ;南九州)国王の取石鹿文(とりいしかや)などは、戦死者だから怨霊(おんりょう)だが、地方性が強くて、その地方で怨霊(おんりょう)とするのか分からない。
怨霊(おんりょう)で有名な天神様の菅原道真(すがわらのみちざね)や僕の暮らす福知山市の御霊(ごりょう)神社に祭る明智光秀(あけちみつひで)などは、御霊(ごりょう)信仰の「鎮魂(みたましずめ)」が神道の基本で、非常に大切な物として理解される。

御霊(ごりょう)信仰は、人々を危険にする天災や疫病の発生が怨(うら)んで死んだり、非業の死をとげた人間の怨霊(おんりょう)の仕業(しわざ)と見なして、これを鎮魂した「御霊(みたま)」として、祟(たた)りを防(ふせ)いで畏怖(いふ)して、平穏(へいおん)と繁栄(はんえい)を願う日本独自の信仰である。
御霊(ごりょう)信仰は、天神様の菅原道真(すがわらのみちざね)なども含んで、日本神話の戦死者を神格化した神様も含むのが正しいが、縄文時代に肉体から霊魂が離れる「鎮魂(みたましずめ)」の考え方があったと証明できず、考え方が残らないためである。

僕の名前の真也(しんや)は、「まことなり」と読めて、言霊(ことだま;言葉の魂)が宿って、古代天皇家の歴史の真実と言う真(まこと)を求めるために生まれ生きて来て、皇室と大きな関わりを持って、大きな功績を残したことで、僕の死後に自分の魂が怨霊(おんりょう)にならないかと考えて、死後に僕を真也神(まことなるかみ)の神名で神格化して、地元の福知山市の御霊(ごりょう)神社に神様として祭ってほしいと考えて、僕の自殺願望が自分を殺そうとする思いだからである。
僕の神格化は、ずいぶん大げさだが、御霊(ごりょう)信仰の怨霊(おんりょう)の考え方に基づくなら、当然の考え方のはずで、怨霊(おんりょう)と祖霊(それい)信仰も同じような考え方である。

祖霊(それい)信仰は、死んだ先祖から生きている子孫たちに影響することを信じて、あるいは先祖から何らかの物をもらえると言う信仰のことで、日本の社会学の分野で、「先祖祭祀(さいし)」と言う用語が定着して、また明治時代以降から戦後の1950年代頃まで「祖先崇拝(すうはい)」の言葉が多く使用されて、日本で学問的に「祖先崇拝(すうはい)」や「祖霊(それい)信仰」の名称も使う。
祖先崇拝(すうはい)は、先祖や祖霊(それい)が子孫や一族の加護を祈(いの)って、その集団の結束を固めるのに役立って、日本をはじめ東アジアやアフリカやマダガスカル島や古代ヨーロッパなどに広く見られて、生物学的や遺伝的なつながりでなく、特定のタイプやカテゴリーの人間を「先祖」と定義して、キリスト教やイスラム教がしっかり根付いた地域がほとんど祖先崇拝(すうはい)をしないと考えて良い。
日本の祖霊(それい)信仰は、祖先の霊を祭って崇拝(すうはい)して、先祖を「遠津祖(とおつおや)」や「祖神(そじん)」や「ご先祖様」や「仏様(ほとけさま)」と呼んで、一般家庭で祖霊社や位牌(いはい)を仏壇(ぶつだん)の中央に祭る慣習、お盆や彼岸(ひがん)にこれらの霊を祭る行事などを言って、奄美(あまみ)群島や沖縄県の地域における祖霊信仰が琉球(りゅうきゅう)神道を指す。

怨霊(おんりょう)など日本独自の霊魂の考え方は、現代日本人が深く考えなくても、幼少から無意識に学び取って、理解する当たり前の自然な感覚である。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
『続・私の半生と古代日本史』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全三巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新修 日本の神話を考える』
上田正昭・著者 株式会社小学館・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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