大田田根子(おおたたねこ)

大田田根子(おおたたねこ)は、一人の人物と考えられるが、僕が『ホツマツタエ』から、初代と2代目の大田田根子(おおたたねこ)が存在したと考えて、大物主神(おおものぬしのかみ)を祭った大田田根子(おおたたねこ)と、『ホツマツタエ』を編纂(へんさん)した大田田根子(おおたたねこ)の2人に分かれると考えて、その理由を述べる。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年2月3日(西暦90年3月上旬頃)の詔(みことのり;天皇の述べた言葉)は、「我が先祖の神々が開いた国が繁栄したのに、我が治世(ちせい)に汚(けが)れがあって、我が国政が神の御心に届かぬお咎(とが)めだ。
しかしながら、これより誠(まこと)を極(きわ)めれば神の許しが出るかもしれぬ」と言って、朝日原(あさひはら;場所不明)に行って、湯立(ゆだて)の神事をして神がかりの神託がされた。
初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、「国民の離散も神々を常に祭らないために、その汚(けが)れを受ける」と語って、その後にこの神が消えて、その夜に崇神(すじん)天皇が初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の夢を見て、我が子孫の初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)に私を祭らせると平和になると神託があった。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年8月7日(西暦90年9月上旬頃)で、3人の家臣が崇神(すじん)天皇に告げて、「我ら3名の夢枕に同じように神が立たれて、初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の斎主(いわいぬし)として、磯長尾市(しながおいち)を倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主とすれば、国の乱れが治まるだろうとお告げがあった」と。
崇神(すじん)天皇は、自分の夢合わせと同じことに驚いて、茅渟(ちぬ)の陶邑(すえむら;大阪府堺市東南部)にいる初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)を初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の斎主として、磯長尾市(しながおいち)を倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主と定めた。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)に初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、磯長尾市(しながおいち)が倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主(さいしゅ)となって、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭ったと考えられる。

大物主神(おおものぬしのかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、後世に太陽神の宮司で、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)から7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)までを神格化したと考えられる。
御神体山の三輪山(みわやま)と大神(おおみわ)神社は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を鎮魂して、出雲王家(物部(もののべ)氏)を祭る神社でもある。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月中旬頃)の夜は、崇神(すじん)天皇の夢枕に神様が立たれて言って、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭って、死んだ罪人の霊が地上に留(とど)まるから祟(たた)ると言う。
崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月下旬頃)は、大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法で、迷う罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。
初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格
化)の子孫の初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、どちらも彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物で、疫病をもたらした大物主神(おおものぬしのかみ)も彦坐王(ひこいますのみこ)で、疫病が祟(たた)りで、祟(たた)りが神様の怒(いか)りと考えられた。
初代・大物主神(おおものぬしのかみ)と初代・大田田根子(おおたたねこ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物と証明するのが簡単で、超天才の僕の自論を誰も否定できない。

『古事記』の系図は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ;歴代の出雲国王(物部(もののべ)氏の血筋)を神格化)の曾孫が建甕槌命(たけみかづちのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)で、その子供が2代目・意富多多泥古(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)と記す。
『日本書紀』の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、『古事記』の建甕槌命(たけみかづちのみこと)と同一神で、その子供が2代目・大田田根子(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)で、『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』をまとめて記して、この2人が出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋が深く関係した。
『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)を神格化)と曾孫の2代目・大田田根子(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度の内乱(皇位継承権争い)に対する贖罪(しょくざい)をまとめて記して、摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に献上したと考えられる。

2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)即位の仁徳(にんとく)天皇時代に重用(ちょうよう)されて、『ホツマツタエ』の2代目・大田田根子(おおたたねこ)の情報から色々読み取れて、ネット検索で武内宿禰(たけのうちのすくね)の別名が武内大田根(たけのうちのおおたね)で、武内宿禰(たけのうちのすくね)と大田田根子(おおたたねこ)の名前が合体した名前と考えられる。
『ホツマツタエ』の序章で、オオナムチ(初代オオモノヌシ)とコトシロヌシ(2代目オオモノヌシ)とクシミカタマ(6代目オオモノヌシ)などの子孫のヲヲタタネコは、2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目オオモノヌシ(狭穂彦王(狭穂彦王)を神格化)と6代目オオモノヌシ(神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)の子孫と証明した。
4世紀初頭の摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に献上した『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度の内乱(皇位継承権争い)に対する贖罪(しょくざい)をまとめて、3世紀末から4世紀前半に出雲大社の元宮の神魂(かもす)神社が創建されたと考えられて、出雲王国の崩壊後の物部(もののべ)氏が重要なお役目を持った理由である。

初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇即位の仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に98才で、息子の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が70歳ぐらいで、仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)に古代朝鮮国家の百済(くだら)と外交が始まって、以降に古代中国王朝とも外交を再開したと考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』の登場人物4人は、日本神話の三貴子(みはしらのうずのみこ)に神格化して、4世紀後半以降に『三国志・魏志倭人伝』を読んだ古代天皇家の役人が日本神話を完成させて、もう一つの『ホツマツタエ』の原本である『ミミノハ(耳の葉)』が日本神話を4世紀後半から5世紀中にまとめて記したと考えられる。

2人の大田田根子(おおたたねこ)は、物部(もののべ)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の2人で、彼らが『ホツマツタエ』や「記紀」に記される内容を超天才の僕が完全解釈して、後世に伝える教本(テキスト)を作り上げた。
73代目の武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏は、先祖代々に渡って記す正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』を公表して、その中に『ホツマツタエ』の編纂(へんさん)に記録などがある可能性が考えられて、竹内(たけうち)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の何らかの記録も伝える可能性が高い。
天孫降臨神話の猿田彦神(さるたひこのかみ)と摂関(せっかん)藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)は、2人以上の人間を一人の人物にまとめて、2人の大田田根子(おおたたねこ)と同じと僕が完全解釈して、全てを求めてしまった。

2人の大田田根子(おおたたねこ)は、古代天皇家の正史(正しい歴史)を求める上で、重要な意味・価値を持って、超天才の僕のような人間が将来的に現れることを願って、後世の後輩に期待したくて、2025年4月24日の午後4時半頃に修正した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『古事記(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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