『宋書(そうしょ)』

『宋書(そうしょ)』は、『宋書(そうしょ)倭国伝(わこくでん;古代日本国の記述)』が正しい呼び名で、古代中国の南朝宋(そう)王朝(西暦420年建国から478年滅亡)が書き残したのを南朝梁(りょう)王朝の文官の沈約(ちんやく;西暦441年出生から513年死亡)がまとめて、かなり信頼性が高い。
『宋書(そうしょ)』は、5世紀の倭(わ;古代日本)の五王を知る重要な歴史書で、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争も求められない専門家(考古学会と歴史学会)が束(たば)になっても無意味・無価値で、空白の4世紀も求められないのに5世紀など夢物語で、自分の無力さも知らない現代人(僕以外の人間)が超天才の僕に一から学ぶしかない。

歴史学会(歴史書解釈)の定説は、倭王(わおう)「讃(さん)」が応神(おうじん)天皇か仁徳(にんとく)天皇か履中(りちゅう)天皇で、倭王(わおう)「珍(ちん)」が反正(はんぜい)天皇で、倭王(わおう)「済(さい)」が允恭(いんぎょう)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)「興(こう)」が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)「武(ぶ)」が雄略(ゆうりゃく)天皇とする。
雄略(ゆうりゃく)天皇の国風諡号(しごう;名前)は、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)の「武(たける)」が倭王「武(ぶ)」と同じ漢字で、現代日本語読み「武(たける)」を古代中国語読みの「武」と合致するはずがなくて、歴史学会の定説が歴代天皇の国風諡号(しごう)を漢字の部首や発音で対比するが、統一性がなくて、完全な間違いである。
説明は、他の章の『倭(わ)の五王の定説と自論』に任(まか)せるが、応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7天皇の在位期間が倭(わ)の五王が遣使した年代と矛盾して、その7人が倭(わ)の五王に当てはめるのがおかしいと結論付けられて、こんな情(なさ)けない連中が専門家(考古学会と歴史学会)である。

僕の自論は、倭(わ)の五王の倭王名(わおうめい;古代日本国王の名前)と歴代天皇の漢風諡号(しごう;名前)を現代中国語読みして、そこから近い発音を対比して、5人の天皇に当てはめた。
そうすると倭王(わおう)「讃(さん)」は、安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)「珍(ちん)」が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)「済(さい)」が清寧(せいねい)天皇で、世子(せいし;世継ぎ)「興(こう)」が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)「武(ぶ)」が武烈(ぶれつ)天皇で、100%完全に正しい。
歴代天皇の漢風諡号(しごう;名前)は、5世紀に存在しなかったとするが、2世紀末の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代天皇家に漢字が伝わって、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇が父親の日本武(やまとたけ)天皇と対立して、漢風諡号(しごう)の仲(なか)が哀(かな)しいと名付けられて、漢風諡号(しごう)が5世紀に存在した理由である。

『宋書(そうしょ)』は、5世紀の倭(わ)の五王を超天才の僕が完全に特定して、「記紀」の不明年代も僕が完全にひもといて、2025年1月26日の午前11時半頃に修正した。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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