但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』という書物は、古史古伝(こしこでん;「記紀」に反する書物)内容と呼ばれて、つまり偽物(にせもの)として書かれた歴史書だと考えられるが、正当な判断ができない者が勝手に偽物(にせもの)としただけで、超天才の僕が正当に正しいか間違いか判断して、正当な歴史書として再評価させようと考えている。
『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』は、但馬(たじま;兵庫県北部)の伝承を中心に集めた歴史書で、「記紀」の内容を補正する部分も間違いなく存在して、正当な歴史書とする点で誤解があって、現代人(僕以外の人間)が理解していない。

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』で最初に但馬(たじま)を開いた神様は、国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと)と記されて、出雲大社の祭神である大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神だが、大国主神(おおくにぬしのかみ)が初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と7代目オオモノヌシ(飯入根(いいいりね)を神格化)を同一神として、滅茶苦茶になったと考えられる。
最初に但馬(たじま)を開拓した神様は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)でなく、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した火明命(ほあかりのみこ)や初代・大物主神(おおものぬしのかみ)とすべきで、常識に捕らわれる人間ほど答えが見えない。

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』に国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと;飯入根を神格化)は、出雲国(島根県東部)を出て、伯耆(ほうき)国・因幡(いなば)国(二国を合わせて鳥取県)を越え、兵庫県の出石(いずし)郡に至り、白石として化生(けしょう)した因幡の八神姫(やがみひめ)と言う女神と出会って、その女神との間に子供をもうけてその子孫が出石(いずし)の県主(あがたぬし)になったと記す。
『古事記』の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根を神格化)の神話に因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)があり、大国主神(おおくにぬしのかみ)が因幡(いなば)の八上比売(やがみひめ)と結婚して木俣神(きまたのかみ)またの名を御井神(みいのかみ)をもうけて、八上比売(やがみひめ)が大国主神(おおくにぬしのかみ)の正妻の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)の嫉妬(しっと)を恐れて、子供を連れて因幡(いなば)に帰ったと記す。
八神姫(やがみひめ)も八上比売(やがみひめ)も因幡(いなば)に由来すると分かり、子供をもうけたことが共通することから同一神とすべきで、須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)を意識して、因幡(いなば)に帰った点が重要である。
因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話で大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根を神格化)は、白兎(しろうさぎ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を助けて、八上比売(やがみひめ;誰を神格化したか不明)と結婚して、木俣神(きまたのかみ;出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)を神格化)をもうけて、出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)が出石(いずし)の県主(あがたぬし)になり、須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)の嫉妬(しっと)を恐れて、因幡(いなば)に出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)を連れて帰ったと考えられる。

『ホツマツタエ』の物部(もののべ)氏系図にイヅモシコの子のイヅシココロと記して、現代の物部(もののべ)氏系図の出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)と兄弟の出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)が完全な間違いで、イヅモシコが7代目オオモノヌシとして神格化された飯入根(いいいりね)と同一人物と考えられて、イヅシココロが出石(いずし)の県主(あがたぬし)になったと考えられて、『ホツマツタエ』と『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』が正しい可能性が証明される。
大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が出石(いずし)郡で因幡(いなば)の八神姫(やがみひめ;誰を神格化したか不明)と結婚できたのは、出雲国王の飯入(いいいりね)根が日本武尊の反乱があった西暦251年以前で、出雲王国(物部(もののべ)氏)と邪馬台国(古代天皇家)の関係が良好だった時代だと考えられるが、確実に正しいと証明できるわけでない。
飯入根(いいいりね)は、物部(もののべ)氏の7代目出雲国王で、八神姫(やがみひめ;誰を神格化したか不明)が何者か分からず、息子の出石心大臣命(いずもしこおおおみのみこと)が物部(もののべ)氏の人間である。

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』に国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと;飯入根(いいいりね)を神格化)の次に但馬を開いたのが2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と記す。
『ホツマツタエ』にニニキネとコノハナノサクヤヒメの間に生まれた長男が2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、その長男のクニテル(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が別名をニギハヤヒと呼び、初代ホノアカリの養子となって、その子孫が物部(もののべ)氏で、次男がタケテル(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)でその子孫が尾張(おわり)氏と記す。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代の崇神(すじん)天皇の実兄で、その子孫が神功(じんぐう)皇后で、その息子の品夜和気命(ほむやわけのみこと)を初代ホノアカリとして神格化されて、2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫が初代ホノアカリ(品夜和気命(ほむやわけのみこと)を神格化)で、『ホツマツタエ』の系図が無理矢理に創作された系図と分かる。
しかし『日本書紀』で神功(じんぐう)皇后の息子でなく、『古事記』で神功皇后(じんぐう)の息子の品夜和気命(ほむやわけのみこと)が存在しなければ、初代ホノアカリ(品夜和気命(ほむやわけのみこと)を神格化)がいないことになる。
『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと;飯入根(いいいりね)を神格化)から丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)の比治(ひじ;京都府京丹後市方面)を授かり、国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと)の命令で三タン(丹波・丹後・但馬)地域を開いたと記す。
大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)でなく、初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神の大物主神(おおものぬしのかみ)で、丹波(たんば)王国平定後にその領土を崇神(すじん)天皇からもらったと考えられて、彦坐王(ひこいますのみこ)が三タン地域を開拓した最初の人物なので、間違いなく信頼できる伝承である。

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』に2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、「…饒速日天日明命(にぎはやひあめのほあかりのみこと)」と記されて、『先代旧事本紀』に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」と記されて、火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)が同一神として扱われる。
『ホツマツタエ』で2代目ホノアカリとニギハヤヒが親子で、尾張(おわり)氏と同族の海部(あまべ)氏が物部(もののべ)氏とも共通の祖先神なのが間違いない事実で、親子の神様が後世に同一神とされて、別におかしなことでもない。

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』に彦坐王(ひこいますのみこ)は、丹波(たんば)国王の陸耳御笠(くがみみのみかさ)と言う敵将を追って、但馬(たじま)に行き水軍を繰り出して、海戦までしてようやく討伐して、戦後すぐに出雲に行き杵築(きづき)大神(きづきおおかみ;大国主神:おおくにぬしのかみ)に勝利を報告して、その功績から丹波(たんば)と但馬(たじま)を与えられて、「大国主(おおくにぬし)」と呼ばれたと記す。
『日本書紀』に崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に丹波平定将軍として丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を派遣して、崇神(すじん)天皇11年4月28日(西暦94年5月下旬頃)に将軍が敵を倒して報告したと記す。『古事記』は、崇神(すじん)天皇時代に日子坐王(ひこいますのみこ)を旦波(たんば;丹波)に派遣して、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺させたと記す。
『ホツマツタエ』と『古事記』と『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』の記述は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子供が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、丹波(たんば)平定の総大将が彦坐王(ひこいますのみこ)で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が付き従う武将の一人だと考えられる。

丹波(たんば)平定を証明する考古学的証拠は、京都府北部と兵庫県北部が弥生時代中期の大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増する事実がある。西暦94年と西暦100年前後はごくわずかな年代差で、崇神(すじん)天皇の命令で支配下に置いた土地を整備したと考えられて、これと共通する同年代の考古学的証拠が大阪府にもある。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、陸耳御笠(くがみみのみかさ)を討伐して、戦後すぐに出雲に行き大国主神(おおくにぬしのかみ)に勝利を報告して、丹波(たんば)を平定の西暦94年から、翌年95年に彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲まで統治下に置いて、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国した。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、丹波(たんば)平定の功績から京都府北中部と兵庫県北部を与えられて、翌年に鳥取県と島根県も与えられて、大きな国の主君として、「大国主(おおくにぬし)」と呼ばれて、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が同一神である。

『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』で天日槍命(あめのひぼこのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、孝安(こうあん)天皇時代に日本に来て、筑紫(つくし;九州)・播磨(はりま;兵庫県南部)・近江(おうみ;滋賀県)・若狭(わかさ;福井県南部)を巡って但馬(たじま)に滞在して、大和からの使者に自分が新羅(しらぎ)の王子で、先祖が秋津洲(あきつしま;日本のこと)の皇子の稲氷命(いなひのみこと)だと言ったと記す。
『日本書紀』に天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は2代目の垂仁(すいにん)天皇3年3月に日本に来た新羅(しらぎ)の王子だと記して、『ホツマツタエ』にアメヒボコが崇神(すじん)天皇39年に播磨(はりま)に来たと記す。
孝安(こうあん)天皇は、架空の天皇で崇神(すじん)天皇を祖先化して、総合すると天日槍(あめのひぼこ)が崇神(すじん)天皇時代に日本にいて、初代の崇神(すじん)天皇時代に九州が統治下になく、兵庫県南部と滋賀県と福井県南部を巡って、但馬(たじま;兵庫県北部)に滞在した可能性が十分にある。
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、神武(じんむ)天皇の兄の稲飯命(いなひのみこと)が先祖と言って、初代の崇神(すじん)天皇の実兄が彦坐王(ひこいますのみこ)で、新羅(しらぎ)王朝と古代天皇家が共通の先祖から分かれた王朝の可能性が十分にあると考えられる。
神武(じんむ)天皇は、初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化した架空の天皇で、つまり天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の先祖が稲飯命(いなひのみこと)する伝承が間違いでなく、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)が朝鮮半島の生まれでなく、明らかに日本語読みの人名で日本人と考えられる。
古代天皇家と共通の先祖を持つ王朝は、世界中に散らばった可能性があって、新羅(しらぎ)王朝が古代天皇家と共通の先祖を持っていてもおかしくない。

参考文献『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』の解釈は、超天才の僕が自分の考え方をまとめて、2025年2月1日の午後4時頃に修正した。

<参考文献>
『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』
発行・叶V人物往来社
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借

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