平群真鳥(へぐりのまとり)の反乱と継体(けいたい)天皇の継承問題
黒字は、僕の自論や完全解釈などで、緑字が僕の修正した歴代天皇の時代までの()内の年代である。
僕が継承問題と書いた理由は、継承の意味が王位継承や、先祖代々(だいだい)の受(う)け継(つ)いだ者(物)などに使って、父親から子供だけでなくて、伯父(叔父;おじ)や甥(おい)にも、受(う)け継(つ)ぐのが継承で、後継者が後継(あとつ)ぎの意味で、継体(けいたい)天皇から今上(きんじょう)天皇(現在の天皇陛下)まで、血筋が続く意味なら、継承問題の方が相応(ふさわ)しいと僕が判断した。
平群真鳥(へぐりのまとり)の反乱
武烈(ぶれつ)天皇24年8月(西暦498年9月頃)は、大臣の平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)がもっぱら国政をほしいままにして、日本の王になろうと欲して、悉(ことごと)く驕(おご)り高ぶって、全く臣下としての節度を弁(わきま)えなかった。
参考文献『正統『竹内文書』の謎』(著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング)を自己分析した僕は、景行(けいこう)天皇の8世孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が皇位継承者(男系男子天皇)のいない武烈(ぶれつ)天皇に反乱したのが確実な史実(歴史上の事実)で、反乱の一般的な名称(歴史上の名前)がなくて、平群真鳥(へぐりのまとり)の反乱や平群真鳥(へぐりのまとり)の乱(らん)と名付けたくて、この反乱が男系男子天皇の皇位継承権争いと僕しか気付かなかった。
8代目・武内宿禰(竹内宿禰;たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり;竹内真鳥:たけうちのまとり)は、皇位継承者(男系男子天皇)になれる資格があったと考えられて、旧11宮家の男系男子の養子が37親等ほど(約18世代から19世代)で、つまり18世代から19世代が18世孫から19世孫で、世代の隔(へだ)たりが養子の男系男子天皇の問題点と考えにくい結論と僕が定義付ける。
出雲王家(物部(もののべ)氏)の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)は、日本武(やまとたけ)天皇(成務(せいむ)天皇と同一人物)の一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚して、竹内(たけうち)氏の氏祖(しそ;氏族の先祖)の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が生まれて、僕が作成した『竹内(たけうち)氏の系図』などが超重要で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)から8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)まで、古代天皇家(古代大和朝廷)の首脳(しゅのう;左大臣(さだいじん)や右大臣(うだいじん)クラスの国家のトップレベル)の役職を歴任したと考えられる。
初代・武内宿禰(竹内宿禰;たけのうちのすくね)の子孫の竹内(たけうち)氏は、一度名字(みょうじ)を平郡(へぐり)氏に改(あらた)めて、再(ふたた)び竹内(たけうち)氏に戻(もど)ったことを意味する。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の『日本書紀』武烈(ぶれつ)天皇時代に記す仁賢(にんけん)天皇11年8月(西暦498年9月頃)は、完全な間違いで、僕の自論の武烈(ぶれつ)天皇24年8月(西暦498年9月頃)が正しくて、西暦年が合致した。)
平群鳥臣(へぐりのまとり)の反乱は、『古事記』が顕宗(けんそう)天皇時代で、『日本書紀』が仁賢(にんけん)天皇11年(西暦498年)の出来事と記して、天皇時代の違いの理由が倭(わ)の五王(ごおう)の比定が間違いなのを意味して、顕宗(けんそう)天皇時代と仁賢(にんけん)天皇11年(西暦498年)でなく、超天才の僕に武烈(ぶれつ)天皇24年(西暦498年)と特定させて、史実・真実・事実を求めさせる布石(ふせき)と考えられる。
武烈(ぶれつ)天皇は、物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)の娘の影媛(かげひめ)を娶(めと)ろうと思われて、仲人(なこうど)を命じて、影媛(かげひめ)の家に赴(おもむ)かせて、双方行き会う約束をされた。
影媛(かげひめ)は、以前に真鳥大臣(まとりのおおおみ)の子の鮪(しび)に犯(おか)されて、武烈(ぶれつ)天皇の期待に背(そむ)くことを恐(おそ)れて、返事申し上げて、「私は海柘榴市(つばきち;三輪(みわ)山麓に開かれた古代の市(いち)のこと)の辻(つじ)で、お待ちいたします」と伝えた。
真鳥大臣(まとりのおおおみ)の子の鮪(しび)は、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり;竹内真鳥:たけうちのまとり)も息子である鮪臣(しびのおみ)で、平群鮪(へぐりのしび;竹内志昆:たけうちのしび)が9代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)か分からなくて、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の詳細な調査が必要である。
そこで武烈(ぶれつ)天皇は、約束した場所へ行こうとして、近習(きんじゅう)の者を遣(つか)わして、平群大臣(へぐりのおおおみ)の家に行かせて、武烈(ぶれつ)天皇の命として、官馬(かんば;朝廷または国の所有の馬)を出すように求めた。
大臣(おおおみ)は、ふざけて偽(いつわ)りを申し上げて言うのに、「官馬(かんば)が誰(だれ)のための物でもない。
あなたのお心のままにお使い下さい」と言ったが、一向に差(さ)し上(あ)げなかった。
武烈(ぶれつ)天皇は、心中で変(へん)に思われたが、こらえて顔色に出されなくて、約束通りの所へ行って、歌垣の人の中にまじって、影媛(かげひめ)の衣(ころも)の袖(そで)を捕(と)らえて、立ち止まったり歩いたりしながら、そっと誘(さそ)いかけた。
しばらくすると鮪臣(しびのおみ)は、やって来て、武烈(ぶれつ)天皇と影媛(かげひめ)に間を押(お)しのけて中に入って、そこで武烈(ぶれつ)天皇が影媛(かげひめ)の袖(そで)を放(はな)して、向きを変えて前に回って、鮪(しび)と面(めん)と向き合われて、歌って言われた。
潮瀬(しおせ)の 波折(なお)りを見(み)れば 遊(あそ)び来(く)る 鮪(しび)が鰭(は)た手(て)に 妻立(つまた)てり見(み)ゆ
(潮の流れている早瀬(はやせ)の波の折り重なりを見ると、泳(およ)いでくる鮪臣(しびのおみ)のそばに、私の女が立っているのが見える)
鮪(しび)が返歌して、
臣(おみ)の子(こ)の 八重(やえ)の韓垣(からかき) 許(ゆる)せとや皇子(みこ)
(臣(平群真鳥臣;へぐりのまとりのおみ)の子(鮪臣;しびのおみ)の幾重にも囲(かこ)った立派な垣の中に、自由に入らせよと武烈(ぶれつ)天皇がおっしゃるのですか)
武烈(ぶれつ)天皇が歌って言われる。
大太刀(おおたち)を 垂(た)れ佩(は)き立(た)ちて 抜(ぬ)か不(ず)共(とも) 末果(すえは)たしても 遇(あ)はむとぞ思(おも)ふ
(私は大きな太刀を腰に垂らして立っているが、今それを抜かなくても、いつか思い通り影媛(かげひめ)と会おうと思う)
鮪臣(しびのおみ)の返(かえ)し歌。
大君(おおきみ)の 八重(やえ)の組(く)み垣(かき) 編結(かか)め共(とも) 汝(な)を編(あ)ましびむ 組結不(かかぬ)くみ垣(かき)
(武烈(ぶれつ)天皇は、立派な組み垣を編(あ)んで、影媛(かげひめ)を捕(と)られないようにしたいだろうが、あなたに編(あ)めないだろうから、立派な組み垣ができない)
武烈(ぶれつ)天皇が歌って、
臣(おみ)の子(こ)の 八重(やえ)の柴垣(しばがき) 下響(したと)よみ 地震(ない)が震(よ)り来(こ)ば 破(や)れむ柴垣(しばがき)
(鮪臣(しびのおみ)の編(あ)み目の多い立派な柴垣(しばがき)。
それは見かけが立派だが、地下が鳴動して地震が襲(おそ)えば、すぐに壊れるような柴垣(しばがき)だ)
武烈(ぶれつ)天皇がまた影媛(かげひめ)に歌を送って、
琴頭(ことかみ)に 来居(きい)る影媛(かげひめ) 玉(たま)ならば 我(あ)が欲(ほ)る玉(たま)の 鮪真珠(あわびしらたま)
(琴の音に引かれて、琴のそばに神様が影(かげ)になって寄(よ)って来るという影媛(かげひめ)は、もし玉にたとえるならば、私の最(もっと)も欲しいと思うアワビの真珠のようだ)
鮪臣(しびのおみ)が影媛(かげひめ)のために返(かえ)し歌をして、
大君(おおきみ)の 御帯(みおび)の倭文絵(しつはた) 結(むす)び垂(た)れ 誰(たれ)やしも人(ひと)も 相思(あいおも)は莫(な)くに
(武烈(ぶれつ)天皇の御帯(みおび)の倭文織(しずおり)の布(ぬの)を垂(た)れる―そのタレという言葉のように、タレか別(べつ)の人に私が思いをかけることはないのに。
;鮪臣(しびのおみ)だけを思っていると言う意味)
武烈(ぶれつ)天皇は、初(はじ)めて鮪(しび)がすでに影媛(かげひめ)と通じていたことを知って、事々に無礼な父子の有り様を知られて、武烈(ぶれつ)天皇が真っ赤になって、大いに怒(おこ)られた。
その夜は、早速大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)の家に行かれて、兵を集めて計画して、大伴連(おおとものむらじ)が数千の兵をひきいて、逃げ道をふさいで、鮪臣(しびのおみ)が奈良山(ならやま;奈良盆地の北にある丘陵)で殺された。
この時に影媛(かげひめ)は、殺された所に追って行って、その殺されるまでを見て、驚(おどろ)き恐(おそ)れて気を失(うしな)って、悲しく涙が目にあふれて、そして歌を作った。
石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過(す)ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋過(たかはしす)ぎて 物多(ものさ)はに 大宅過(おおやけす)ぎ 春日(はるひ)の 春日(かすが)を過(す)ぎ 妻籠(つまこも)る 小佐保(おさほ)を過(す)ぎ 玉笥(たまけ)には 飯(いい)さえ盛(も)り 玉皿(たまも)ひに 水(みず)さえ盛(も)り 泣き沾(そ)ほち行(ゆ)くも 影媛憐(かげひめあわ)れ
皿は、「?」の下に「皿」で、ホームページで表示できるが注意書きにして、自分で調(しら)べてほしい。
(石上(いそのかみ)の布留(ふる)を過(す)ぎて、高橋(たかはし)を過(す)ぎて、大宅(おおやけ)を過(す)ぎて、春日(かすが)を過(す)ぎて、小佐保(おさほ)を過(す)ぎて、死者に供(そな)える美しい食器には飯(めし)まで盛(も)り、美しい椀(わん)に水まで盛(も)って、泣(な)きぬれて行くよ。
影媛(かげひめ)は、ああ)
こうして影媛(かげひめ)は、埋葬も終わって、家に帰ろうとするに当たって、むせび泣(な)きして言った。
「つらい事だなあ、今日我が愛する夫を失(うしな)った」と、さめざめと涙を流して、重い心を歌った。
青丹好(あおによ)し 奈良(なら)の谷間(はさま)に 鹿如物(ししじもの) 水就(みづ)く辺隠(へこも)り 水注(みなそそ)ぐ 鮪(しび)の稚子(わくこ)を 求食(あさ)りつ勿猪子(ないのこ)
(奈良山(ならやま)の谷間(たにま)に、鹿(しか)が水びたしになるように死んで、水をあびている鮪(しび)の若子(わくこ)をあさり出すようなことはするなよ。
猪(いのしし)よ。
;猪(いのしし)は、武烈(ぶれつ)天皇の兵を指(さ)して、鮪臣(しびのおみ)の骸(むくろ;亡骸(なきがら)のこと)を掘(ほ)り出さないで欲しいという意味)
武烈(ぶれつ)天皇24年11月11日(西暦498年12月頃)に大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)は、武烈(ぶれつ)天皇に申し上げて、「真鳥(まとり)の奴(やつ)を討(う)ちなさい。
おっしゃれば討伐します」と言った。
武烈(ぶれつ)天皇は、「天下争乱の恐(おそ)れがある世にすぐれた人物でなければ、治(おさ)めることができない。よくこれを安(やす)らかにできるのはお前だろう」と言われて、そこで一緒に相談した。
そして大伴連(おおとものむらじ)は、兵をひきいて自ら将となって、大臣(おおおみ;平郡真鳥:へぐりのまとり)の家を囲(かこ)んで、火をかけて焼(や)き払(はら)って、人々が指揮に雲のようになびき従(したが)った。
真鳥大臣(まとりのおおおみ)は、自分の計画の失敗を知って、逃(のが)れがたいことを悟(さと)って、計画が挫折(ざせつ)して、望(のぞ)みがついえて、広い海の潮(しお;塩)を指(ゆび)さして、呪(のろ)いをかけてついに殺されて、科(とが)がその一族に及んだ。
呪(のろ)う時は、ただ敦賀(つるが)の海の潮(しお;塩)だけを忘(わす)れて呪(のろ)いをかけず、そのため敦賀(つるが)の海から取れる塩が天皇の御食用に使われたが、他の海の塩が天皇の忌(い)まれる(嫌(きら)われる)所となった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の『日本書紀』武烈(ぶれつ)天皇時代に記す仁賢(にんけん)天皇11年11月11日(西暦498年12月頃)は、完全な間違いで、僕の自論の武烈(ぶれつ)天皇24年11月11日(西暦498年12月頃)が正しくて、西暦年が合致した。)
平郡真鳥(へぐりのまとり)は、敦賀(つるが)の潮(しお;塩)だけを呪(のろ)い忘(わす)れて、それ敦賀(つるが)の塩が天皇の御食用になって、他の塩が天皇に嫌(きら)われて、子供のいない武烈(ぶれつ)天皇から、皇位継承した継体(けいたい)天皇が『日本書紀』で越前(えちぜん;福井県東部:福井県敦賀(つるが)市を含(ふく)む)の統治者で、『古事記』が近江(おうみ;滋賀県)の統治者と記して、飛(と)び地の統治者と考えられて、福井県敦賀(つるが)市の塩と関係が深くて、継体(けいたい)天皇の子孫の歴代天皇が重用(ちょうよう)したと考えられる。
継体(けいたい)天皇の子孫の歴代天皇は、福井県敦賀(つるが)市の塩だけを重用(ちょうよう)して、継体(けいたい)天皇が男系男子天皇として、即位できたことと敦賀(つるが)市の塩だけを重用(ちょうよう)する理由を歴史研究して、考えるのも一つの学問である。
武烈(ぶれつ)天皇24年12月(西暦499年1月頃)に大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)は、賊(ぞく)を平定し終わって、政治を武烈(ぶれつ)天皇にお返(かえ)し(平郡真鳥(へぐりのまとり)が乱(みだ)した国政を返還した。)して、大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)を大連(おおむらじ)にした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の『日本書紀』武烈(ぶれつ)天皇時代に記す仁賢(にんけん)天皇11年12月(西暦499年1月頃)は、完全な間違いで、僕の自論の武烈(ぶれつ)天皇24年12月(西暦499年1月頃)が正しくて、西暦年が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇11月11日(西暦498年12月頃)に武烈(ぶれつ)天皇と大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)は、国賊の平郡真鳥(へぐりのまとり;竹内真鳥:たけうちのまとり)を殺して、武烈(ぶれつ)天皇24年12月(西暦499年1月頃)に平郡(へぐり)一族(竹内(たけうち)一族)を討伐して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の直系子孫の竹内(たけうち)氏が失脚(しっきゃく)して、平群(へぐり)氏(竹内(たけうち)氏)の本拠地が奈良県生駒郡(いこまぐん)平群町(へぐりちょう)である。
8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内真鳥(たけうちのまとり)によって失脚(しっきゃく)した竹内(たけうち)氏が復権(ふっけん)したのは、竹内真鳥(たけうちのまとり)の息子である竹内志昆(たけうちのしび;平郡鮪:へぐりのしび)の曾孫の竹内塩手(たけうちのしおて)が物部守屋(もののべのもりや)を討伐した時で、竹内塩手(たけうちのしおて)が13代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)である。
国賊の平郡真鳥(へぐりのまとり;竹内真鳥:たけうちのまとり)は、武烈(ぶれつ)天皇に代わって、国政を牛耳(ぎゅうじ)ろうとした男系男子天皇の皇位継承権争いで、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系子孫の平郡真鳥(へぐりのまとり;8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内真鳥(たけうちのまとり)と大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)の対立で、歴史上から抹消(まっしょう)した武家の古代豪族の物部(もののべ)氏と大伴(おおとも)氏の戦争と僕しか、特定できない奇跡の神技(かみわざ)だった。
景行(けいこう)天皇の8世孫で、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり:竹内真鳥:たけうちのまとり)は、皇室の遠縁(とおえん)だが、天皇になれる血筋で、皇室の遠縁(とおえん)の継体(けいたい)天皇が即位できる理由でもあって、現代の皇位継承権問題が旧11宮家の男系男子の養子から、男系男子天皇が即位できる大きな理由になって、神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)からの男系男子天皇がしょせん記録(歴史書解釈)にすぎなくて、科学的な遺伝子(DNA)や考古学(遺跡・遺物)などでない。
継体(けいたい)天皇の継承問題
武烈天皇32年12月8日(西暦507年1月頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、56才か57才で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、武烈(ぶれつ)天皇に子供がなく、皇統(こうとう;歴代天皇から連(つら)なる血統:系統)が断絶してしまう所だった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の武烈(ぶれつ)天皇8年12月8日(西暦507年1月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の武烈天皇32年12月8日(西暦507年1月頃)が正しくて、西暦年が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇の年齢は、他書に数え年で、18才や57才や58才と記して、在位期間が武烈(ぶれつ)天皇元年(498年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(506年)で、父の仁賢(にんけん)天皇が他書に50才や51才で、在位期間が仁賢(にんけん)天皇元年(488年)から仁賢(にんけん)天皇8年(497年)で、計算が正しいと思い込む。
そして専門家(歴史学会)は、最後の倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)を雄略(ゆうりゃく)天皇で、西暦478年まで生きて、『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇が実年齢17才で亡くなって、父の仁賢(にんけん)天皇が実年齢49才か50才で、亡くなったと計算した。
専門家(歴史学会)は、西暦507年1月頃に武烈(ぶれつ)天皇が実年齢17才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が実年齢20代で皇后になって、継体(けいたい)天皇3年(西暦509年)に欽明(きんめい)天皇を生んで、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(571年5月24日)に欽明(きんめい)天皇が62才ほどで、亡くなったと計算した。
しかし歴史書の数え年は、本当か嘘(うそ)かを即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)で、うまく偽装工作して、混乱させるために作ったが、超天才の僕が打ち破った。
武烈(ぶれつ)天皇8年12月21日(西暦507年1月頃)に大伴金村大連(おおとものかねむらのおおむらじ)は、天皇候補に決まった丹波国桑田(くわた)郡(京都府の亀岡市の大部分と南丹市の一部分と京都市の左京区と右京区の一部と大阪府の高槻(たかつき)市の一部など)の倭彦王(やまとひこのみこ)の元に兵士を遣(つかわ)わしたが、倭彦王(やまとひこのみこ)が兵士に驚(おどろ)いて恐怖して、逃げ出して行方(ゆくえ)不明になった。
倭彦王(やまとひこのみこ)は、仲哀(ちゅうあい)天皇の4世孫の倭彦王(やまとひこのみこ)は、正しく分析したら、9世孫から11世孫くらいで、継体(けいたい)天皇の即位に遠縁(とおえん)が問題ない理由と考えられて、旧11宮家の男系男子の養子が37親等ほど(約18世代から19世代)で、つまり18世代から19世代が18世孫から19世孫で、世代の隔(へだ)たりが養子の男系男子天皇の問題点と考えにくい結論と僕が定義付けて、男系男子天皇の養子問題の希望になるだろう。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の武烈(ぶれつ)天皇8年12月21日(西暦507年1月頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の武烈(ぶれつ)天皇32年12月21日(西暦507年1月頃)が正しくて、西暦年が合致した。)
継体(けいたい)天皇元年1月4日(西暦507年2月頃)に大伴金村大連(おおとものかねむらのおおむらじ)は、会議して男大迹王(おおどのきみ;後の継体(けいたい)天皇)を天皇に迎(むか)えることが決まって、6日(2月上旬頃)に臣(おみ)や連(むらじ)らが『日本書紀』の三国(みくに;福井県坂井市三国)に男大迹王(おおどのきみ)を迎(むか)えに行ったが、距離的に『古事記』の三尾(みお;滋賀県高島市阿曇川町(あどがわちょう)三尾里(みおざと)に迎(むか)えに行ったのが正しいと考えられる。
継体(けいたい)天皇元年1月12日(西暦507年2月頃)に男大迹王(おおどのきみ;後の継体(けいたい)天皇)は、河内国(かわちのくに)の交野郡葛葉宮(かたのこおりのくずはみや;皇居:大阪市枚方(ひらかた)市樟葉)に入られた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の継体(けいたい)天皇元年1月(西暦507年2月頃)は、完全に正しくて、僕の自論で特定する必要もなく、現在の定説通りの年代に間違いがない。)
継体(けいたい)天皇元年1月6日から12日(西暦507年2月頃)は、継体(けいたい)天皇のいる福井県まで往復が不可能で、僕が嘘(うそ)と考えて、継体(けいたい)天皇が本当に統治した場所が飛(と)び地の滋賀県高島市の三尾(みお)と福井県坂井市三国(みくに)と考えられる。
継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日頃)に新しい血筋の男大迹王(おおどのきみ)は、継体(けいたい)天皇に即位して、これが現在の天皇家(皇室)の直系先祖で、100世代も受(う)け継(つ)いだ天皇が現在の今上(きんじょう)天皇(天皇陛下)で、男系男子天皇の理由とされて、もっと以前の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)まで、血筋が続(つづ)く男系男子天皇の理由として、現在の男系男子天皇の皇位継承問題が白熱(はくねつ)した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日頃)は、完全に正しくて、僕の自論で特定する必要もなく、現在の定説通りの年代に間違いがない。)
神功(じんぐう)皇后の6世孫の継体(けいたい)天皇は、正しく求めると9世孫から11世孫ぐらいで、神功(じんぐう)皇后の息子である誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の息子が稚野毛二派皇子(わきのけふたまたのみこ)で、ここから系図が飛んで、彦主人王(ひこうしのみこ)の息子が継体(けいたい)天皇で、ここの父子の系図が信憑性(しんぴょうせい)を高めて、明(あき)らかに偽装工作で、作(つく)られた系図と考えられる。
おそらく9世孫から11世孫ぐらいの継体(けいたい)天皇は、確実に天皇家(皇室)の直系子孫で、天皇家の遠縁(とおえん)の平群真鳥(へぐりのまとり)と倭彦王(やまとひこのみこが次代の天皇の候補になって、皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫で、女系男子天皇の根拠だからで、現在の女系天皇と女性天皇などの女性皇族問題を解決する「きっかけ」で、男系男子天皇の皇位継承問題も含(ふく)めて、現在の皇位継承問題を解決する筋道(すじみち)にしたいと思う。
継体(けいたい)天皇と尾張連草香(おわりむらじのくさか)の娘(むすめ)の目子媛(めのこひめ)は、安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇を生んで、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祖先神とする古代太陽神氏族の尾張(おわり)氏の後(うし)ろ盾(だて)を得(え)て、継体(けいたい)天皇が天皇になれたと考えられて、天孫系の古代太陽神氏族の尾張(おわり)氏の存在が非常に大きいはずである。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話と2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の丹波(たんば;古代の京都府北中部)の天孫降臨神話は、男性の古代太陽神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が2つの天孫降臨神話を伝承して、天孫系の古代太陽神と証明して、饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫の出雲王家(物部(もののべ)氏)や、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫の海部(あまべ)氏を伝承する。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の直系子孫は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏から、尾張国(おわりのくに;愛知県東部)の統治者の尾張(おわり)氏に分家して、愛知県東部の大規模な前方後円墳の埋葬者や、尾張国(おわりのくに;愛知県東部)の元伊勢内宮が女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)だけでなく、男性の古代太陽神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)も祭って、尾張(おわり)氏が尾張国(おわりのくに;愛知県東部)の武家の古代豪族でもあった。
そんな古代太陽神氏族の尾張(おわり)氏の尾張連草香(おわりむらじのくさか)は、義理の息子の継体(けいたい)天皇を支援して、即位に協力したのが自然で、2人の孫が安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇になったことも、大きな理由の一つで、継体(けいたい)天皇の統治場所だった滋賀県高島市の三尾(みお)に近いことも、理由の一つだろう。
武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、56才か57才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月頃)に武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上で皇后になった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月頃)は、完全に正しくて、僕の自論で特定する必要もなく、現在の定説通りの年代に間違いがない。)
継体(けいたい)天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ)の息子の欽明(きんめい)天皇は、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(西暦571年5月24日頃)に亡くなって、逆算して享年(きょうねん)が90才から100才くらいと考えられて、継体(けいたい)天皇が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫だから女系男子天皇で、先代の武烈(ぶれつ)天皇の実姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にして、この2つの理由で即位したと考えられる。
百済(くだら)と外交を再開した西暦366年から5世紀中までには、一応の日本神話が成立したと考えられて、聖徳太子以降の古代天皇家が女系(母系)の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)を作(つく)り出して、その直系子孫の15代目・継体(けいたい)天皇から116代目・今上(きんじょう)天皇(現在の天皇陛下)まで女系男子天皇が続くと伝承して、現在の女系天皇と女性天皇の女性皇族の皇位継承問題を解決する「きっかけ」を残(のこ)したと考えられる。
今年2026年は、日本の建国(天皇家誕生)1942年目で、5代目の仁徳(にんとく)天皇から116代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで女系男子天皇が続いて、世界最長の王朝が史実・真実・事実で、愛子様とその子孫が女系天皇と女性天皇を認(みと)める「きっかけ」で、僕が飛び下り自殺未遂でもみじヶ丘病院に入院した2021年11月9日に女系男子天皇を求めてから、3年越(ねんご)しの希望の年になることを願(ねが)いたい。
崇神(すじん)天皇時代に三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)は、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)の形代(かたしろ)が作(つく)られて、2種類の三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)の誕生で、邪馬台国(やまたいこく;大和国:やまとこく)時代から、南北朝(なんぼくちょう)時代なども、皇位継承問題を生み出して、メソポタミア文明の三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)と同(おな)じの物と騒(さわ)いだり、天皇家(皇室)の奥深さが測(はか)り知れない。
継体(けいたい)天皇は、清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に生まれて、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月3日頃)に新しい血筋の15代目天皇に即位して、継体(けいたい)天皇25年2月7日(西暦531年3月10日頃)に実年齢81才で亡くなった。
継体(けいたい)天皇の享年(きょうねん)は、『日本書紀』が数え年82才で、『古事記』が数え年43才で、実年齢42才が武烈(ぶれつ)天皇15年頃(西暦489年頃)生まれの計算間違いで、西暦470年代か480年代に息子の欽明(きんめい)天皇が生まれて、実年齢81才で亡くなったと計算した。
継体(けいたい)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)は、ある本が継体(けいたい)天皇28年(西暦534年)として、継体(けいたい)天皇25年2月(西暦531年3月頃)に病(やまい)が重くなって、2月7日(西暦531年3月10日頃)に数え年82才で崩御(ほうぎょ)して、継体(けいたい)天皇25年の崩御(ほうぎょ)を『百済本記(くだらほんき)』に基(もと)づく。
その文が言うには、「25年3月(西暦531年4月頃)に進軍して安羅(あら;韓国の咸安(ハマン)郡に存在した小国家)に至って、乞屯城(こっとくのさし)を造った。この月に高麗(高句麗;こうくり)は、その王の安を弑(しい;殺害した)した。
また聞く所では、日本の天皇とおよび皇太子と皇子が皆死んだ」と、これに言う辛亥(かのとい)の年が25年(西暦531年)に当たって、後世に調べて考える人が解明するだろう。
辛亥(かのとい)の継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)に継体(けいたい)天皇と皇太子の安閑(あんかん)天皇と皇子の宣化(せんか)天皇が皆死んで、欽明(きんめい)天皇が残されて、政変が起きて、欽明(きんめい)天皇以外が全員殺害された可能性、安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇が欽明(きんめい)天皇と対立して殺害した可能性などが考えられる。
しかし『百済本記(くだらほんき)』の記述は、朝鮮半島だけの記述で、信憑性(しんぴょうせい)に問題があって、古代天皇家の正史(正式な歴史書)「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」などの信頼性も考慮して、超天才の僕でも判断できない。
彦坐王(ひこいますのみこ)を一番最初の先祖とする古代太陽神氏族の尾張(おわり)氏の後(うし)ろ盾(だて)を得(え)て、即位した安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇は、その在位期間や事績などを考えても、実在したかどうかも、あやしい所があって、多くを書かない。
欽明(きんめい)天皇は、宣化(せんか)天皇4年12月5日から欽明(きんめい)天皇32年4月15日(西暦539年12月30日?から571年5月24日?)まで在位して、父親の継体(けいたい)天皇が亡くなってから、異母兄の安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇が在位したが、その存在があやしいとされて、欽明(きんめい)天皇本人の在位期間そのものにも、疑問があって、納得(なっとく)できない。
清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)生まれの武烈(ぶれつ)天皇は、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に56才か57才で亡くなって、武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60歳以上で皇后になって、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(西暦571年5月24日?)に欽明(きんめい)天皇が亡くなって、逆算して享年(きょうねん)が90才から100才くらいと考えられる。
継体(けいたい)天皇の息子である欽明(きんめい)天皇の血筋は、現在の天皇家(皇室)まで続(つづ)いて、男系男子天皇の血筋が続(つづ)くと伝承する大切な理由とされて、伝統などが大切なのも分かるが、遺伝的(DNA(ディーエヌエー)など)な理由に基(もと)づくと、理由を失(うしな)うのが当然で、本当に大切なことを見失(みうしな)わずに見つめ直して、男系男子天皇の養子案も、正しく理解する寛容(かんよう)さと、女系天皇や女性天皇の女性皇族の皇位継承問題も、正しく把握してほしいと願(ねが)う。
古代天皇家の秘史(ひし;秘密の歴史)は、超天才の僕にしか特定できなくて、日本神話の神々の領域…神域をひもといて、邪馬台国(やまたいこく;大和国;やまとこく)時代と倭(わ)の五王(ごおう)時代も含(ふく)めて、現在の天皇家(皇室)と考古学会(遺跡・遺物)と歴史学会(歴史書解釈)なども含(ふく)めて、正しい理解や把握を後世に託(たく)すことが超重要である。
継体(けいたい)天皇時代以降の歴史は、超天才の僕しか特定できなかった歴史を再現して、後世に伝承する超重要な役割(やくわり)である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借
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