西暦250年から252年までの動乱

黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代で、青字が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一般的な専門家(歴史書解釈)と僕の考え方である。

西暦250年の東日本への出陣(しゅつじん)準備
景行(けいこう)天皇51年から54年にかけて日本武尊(やまとたけのみこと)の巡った東国(中部地方から東北地方南部)を景行(けいこう)天皇が回ったのが嘘(うそ)で、死んでない日本武尊(やまとたけのみこと)に哀悼(あいとう)を送る意味で、ワザと作ったのが間違いなくて、『ホツマツタエ』が景行(けいこう)天皇56年まで記して、以降の歴史を隠した。

『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇40年6月は、景行(けいこう)天皇60年6月(西暦250年7月頃)が正しくて、ホツマ国(東海地方)の蝦夷(えみし)が反乱して騒がしく、景行(けいこう)天皇が諸臣を集めて、誰を派遣して平定したら良いか相談した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇40年6月(西暦130年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年6月(西暦250年7月頃)が正しい。)

ホツマ国(東海地方)の蝦夷(えみし)の反乱は、古代天皇家が東国(中部地方から東北地方南部)平定のための方便(ほうべん)の可能性がある。

『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇25年7月1日は、景行(けいこう)天皇60年7月1日(西暦250年8月上旬頃)が正しくて、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)に派遣することが決まって、『ホツマツタエ』がヨーロッパの西暦年を使用した証拠である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇25年7月1日(西暦95年8月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年7月1日(西暦250年8月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇40年10月2日は、景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)で、父の景行(けいこう)天皇から矛を授かった日本武尊(やまとたけのみこと)は、「昔に父の恩頼(みたまふゆ;神や天皇から受ける恩徳)によって熊襲を平定することができた。
今度もまた父の御魂(みたま)の守護によって敵地にのぞみ、服従せぬ者を討ち滅ぼそうと存じます」と父に再拝した。
皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)の5名を護衛する武将で、比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)を膳部(かしわでべ;食事係)として軍を整備して、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)を出立して、東海の平定に向かった。
北陸の平定の総大将が日本武尊(やまとたけのみこと)の異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、従軍した武将が崇神(すじん)天皇の息子である豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島命(ひこさしまのみこと)で、仲哀(ちゅうあい)天皇4年(255年)に東山道十五国の都督(かみ)を命じられたが、亡くなった彦狭島王(ひこさしまのみこ)と同一人物である。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇40年10月2日(正しくは景行(けいこう)天皇60年10月2日;西暦250年11月上旬頃)は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が奈良県桜井市の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡)でなく、滋賀県の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)から出陣して、東海平定の総大将として出撃したと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇40年10月2日(西暦110年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)が正しい。)

日本武尊(やまとたけのみこと)の異母兄弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)は、藤原氏の先祖で、東海平定に登場する藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)と同一人物である。
日本武尊(やまとたけのみこと)の異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、北陸平定の総大将で、その息子が武渟川別(たけぬなかわわけ)と比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)で、日本武尊(やまとたけのみこと)の甥(おい)である。景行(けいこう)天皇の曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、日本武尊(やまとたけのみこと)の遠い親戚である。
景行(けいこう)天皇の異母兄弟の祖別命(みおやわけのみこと)は、吉備(きび)氏の先祖で、その息子が吉備武彦(きびたけひこ)だから、日本武尊(やまとたけのみこと)の従兄弟である。大伴武日(おおとものたけひ)は、初代・崇神天皇の伯父の瀛津世襲(おきつよそ)の直系子孫で、大伴(おおとも)の系図で前後関係が不明である。
比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)は、膳(かしわで)氏の先祖で、磐鹿六雁(いわかふつかり)と七掬脛(なつかはぎ)と同一人物で、彦稲腰別命(ひこいなこしわけのみこと)などと書き換えられて、武渟川別(たけぬなかわわけ)の実弟か異母弟である。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、東海地方から東北地方南部までを平定した軍神(いくさがみ)で、関東地方に祭られる理由で、出雲の国譲(くにゆず)り神話にも登場する。

景行(けいこう)天皇の崩御(ほうぎょ)
『日本書紀』景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定でいなくて、皇位継承者の仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を押す者がいて、皇位継承問題が起きた。
景行(けいこう)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇の死去で、実年齢79才で、次代の天皇の候補者である皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が不在で、他の皇位継承者が日本武尊(やまとたけのみこと)の息子の仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の2人で、皇位継承権問題が発生した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦130年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇40年11月から12月頃(正しくは景行天皇60年11月から12月頃;西暦250年12月から251年1月頃)は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が護衛の武将たちを引き連れて、東海平定の旅路に立って、まず日本武尊(やまとたけのみこと)が妾(めかけ)の宮簀媛(みやずひめ)がいる尾張国(おわりのくに;愛知県西部)で、ある程度の休憩をしたのが嘘(うそ)で、尾張国(おわりのくに;愛知県西部)に進軍した時期を意味する。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇40年11月から12月頃(西暦130年12月から131年1月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行天皇60年11月から12月頃(西暦250年から251年1月頃)が正しい。)

景行(けいこう)天皇の崩御(ほうぎょ)は、東海平定の総大将が息子で皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)で、北陸平定の総大将が異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が出陣した翌月の出来事で、不運な皇位継承権争いが起きて、最大最悪最凶の事態になった。

251年の嘘(うそ)の記述
卑弥呼(ひみこ)は、死去して男王(だんおう)が即位して、国中が服従しなくて、戦争で千人余りが戦死したと解釈するが、前後関係がバラバラである。

今まで僕は、天皇不在の年(西暦251年)と定義したが、2026年1月18日の午前11時10分頃に「皇族に認(みと)められない日本武(やまとたけ)天皇元年(西暦251年)」を再定義して、それ以前の認識である同一人物の成務(せいむ)天皇元年(西暦251年)と合致して、日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年;西暦251年)と再定義した。
西暦250年と翌年251年(景行(けいこう)天皇60年と日本武(やまとたけ)天皇元年;成務(せいむ)天皇元年)の政治不安は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が総大将で、東海平定に出陣したが、翌月に父親の景行(けいこう)天皇が死去して、悪運が重(かさ)なって、反乱(皇位継承権争い)が起きた事実が超重要である。
(『日本書紀』の成務(せいむ)天皇即位年は、干支(えと)の辛未(かのとひつじ)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇元年1月5日(西暦131年2月上旬頃)が完全な間違いで、干支(えと)の60年間を引き算した一年未満の計算で、日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年;西暦251年)が正しい。)

強行即位した素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、太陽神(父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を指(さ)す)殺しの大罪で、皇祖神(皇室の祖先神)の直系系図から外(はず)して、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』が「倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)」で、『阿波国風土記(あわのくにふどき)』が「倭健(やまとたけ)天皇」で、『住吉大社神代記』が「父天皇」と記して、特別扱いの皇子でなく、皇太子と天皇が正しい。
倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)と倭健(やまとたけ)天皇と父天皇は、日本武尊(やまとたけのみこと)が異母兄弟の成務(せいむ)天皇と同一人物で、国賊の日本武(やまとたけ)天皇(成務(せいむ)天皇と同一人物)の反乱(皇位継承権争い)を超天才の僕が正しく暴(あば)いた。


『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇46年1月に景行(けいこう)天皇は、七草の御饗(みあえ)で歌合(うたあわせ)をもよおして、この宴(うたげ)が日を重ねて行なわれたが、息子の成務(せいむ)天皇と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が宮に参上せず、そこで二人を呼んで理由を聞いた。「御饗(みあえ)の日は、皆が遊びに興じて、政務を忘れがちになります。邪(よこしま)な者があればこの機を狙うでしょう。ゆえに御垣(みかき)を守護しておりました」と答えた。
景行(けいこう)天皇は、「もっともじゃ」と言われて、その忠義を讃(たた)えて、両名に褒美(ほうび)を与えられて、景行(けいこう)天皇51年8月4日に成務(せいむ)天皇を世継ぎ御子(みこ)に立て、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を宗(むね)の臣とされた。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)1月(西暦251年2月頃)に成務(せいむ)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物)は、皇位を狙う不届(ふとど)き物で、8月4日(251年9月上旬頃)に成務(せいむ)天皇が三種の神器を強奪して、世継ぎ御子(みこ)の日本武(やまとたけ)天皇(即位しない成務(せいむ)天皇)に強行即位して、皇族の誰にも認められなかった。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇46年1月(西暦116年2月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)1月(西暦251年2月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇46年1月は、『日本書紀』で景行(けいこう)天皇51年1月に改められて、日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)1月(西暦251年2月頃)に当たって、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が西暦年を使って、『ホツマツタエ』なら他の天皇時代が皇太子を後継者に指名するが、世継ぎ御子(みこ)が認められない日本武(やまとたけ)天皇で、『三国志・魏志倭人伝』の男王(だんおう)に当たって、日本武(やまとたけ)天皇の強行即位日を2017年10月5日に求めた。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、西暦251年に宗(むね)の臣の大臣だが、『ホツマツタエ』で武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の右大臣で、仲哀(ちゅうあい)天皇時代の右大臣より前に大臣なのがあり得ない。

神奈川県の平定
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇41年1月28日(日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)1月28日;西暦251年2月下旬頃)は、雪が降って、武将たちが雪車(そり)に乗って進軍して、新治(にはり;茨城県新治郡)から相模(さがみ;神奈川県)の香久元彦(かぐもとひこ)の館に着くと、虎柏(とらがしわ)という者が野原で片鎧(かたあぶみ)を拾って考えて、玉を刺して武将たちに献上して、2024年6月8日の朝に日付を求めた。
武将たちは、この玉飾りをほめて、村の名前を多磨川鎧(たまがわあぶみ;東京都のどこかの村?)、武蔵国(むさしのくに;東京都と埼玉県)、相模国(さがみのくに;神奈川県)と名付けて、その地域を香久元彦(かぐもとひこ)に授けて、国神(くにつかみ)とした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇41年1月28日(西暦111年2月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)1月28日(西暦251年2月下旬頃)が正しい。)

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)1月28日(西暦251年2月下旬頃)に武将たちは、駿河(するが;静岡県中部)に入って、次に相模国(さがみのくに;神奈川県)を平定して、次に武蔵国(むさしのくに;東京都と埼玉県)に入って、東京都と埼玉県を平定したと考えられる。
多磨川鎧(たまがわあぶみ;東京都のどこかの村?)と武蔵国(むさしのくに;東京都と埼玉県)と相模国(さがみのくに;神奈川県)の平定地域は、香久元彦(かぐもとひこ)を国津神(くにつかみ;仮(かり)の統治者)として、仲哀(ちゅうあい)天皇4年(西暦255年)に任命された国造(くにみやつこ)と県主(あがたぬし)のつなぎと考えられるが、西暦191年5月頃生まれの弟橘姫(おとたちばなひめ)の祖父の香久元彦(かぐもとひこ)が最低でも、40才ぐらいとすると、西暦251年に最低100才ほどで、香久元彦(かぐもとひこ)の孫か曾孫と考えられる。

静岡県中部は、旧国名が駿河(するが)で、神奈川県が旧国名を相模(さがみ)と呼んで、『ホツマツタエ』が「さがむ」と発音して、『ホツマツタエ』が正しいと考えられる。
日本武尊は、静岡県と神奈川県に向けて、陸路を進軍したが、どの辺りで奈良県に帰還したか、予測できない。
日本武尊が東海平定に出発して、翌月に景行天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、そこで父親の死去を伝える使者が急いで日本武尊の後を追って、どのくらいの期間で追いついたか分からないが、東海平定の最中と考えられる。
日本武尊に随行する武将の吉備武彦(きびたけひこ)は、日本武尊の死去を皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に伝えたが、その真相が日本武尊の命令で父親の景行天皇の死去を異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)に伝えて、武虎別皇子と一緒に大和に帰還したと考えられる。
武虎別皇子と吉備武彦の二人は、先に大和に帰還して皇位継承権争いで反乱した日本武尊を止めるために奮闘したと考えられる。

参考文献『季刊 考古学 第80号』(発行・�蒲Y山閣)P.57の図は、弥生時代後期末(3世紀前半頃)までに近畿地方と四国と北九州までが古代天皇家の勢力下に入って、図の出土地域と見事に符合している。
広形銅矛の分布域は、対馬から北九州そして四国中部にまで及び、近畿式突線紐銅鐸(どうたく)が主に分布する地域が四国中部から和歌山県と奈良県と大阪府と京都府と滋賀県と兵庫県と福井県と岡山県になって、三遠式突線紐銅鐸が主に分布する地域が三重県と愛知県と静岡県西部にまで及んで、これだけの地域が古代天皇家の支配地域だったと考えられる。
静岡県西部の遠江(とおとうみ)は、三遠式突線紐銅鐸が出土する東端と考えられて、まず日本武尊(やまとたけのみこと)の東海平定で、平定した最初の土地が相模(さがみ;神奈川県)で、静岡県東部の伊豆(いず)までが統治下で、静岡市の登呂(とろ)遺跡が弥生時代後期(1世紀以降)の遺跡で、古代天皇家の統治下の遺跡か調べて、調査・研究が重要である。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇41年6月頃(日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)6月頃:西暦251年7月頃)は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の働きでホツマ国(東海地方)の香久元彦(かぐもとひこ)を味方にして、穂積(ほづみ)テシ(テチカ(左近)か?)と桜根(さくらね)マシ(マチカ(右近)か?)を先に行かせた。
後に日本武尊(やまとたけのみこと)の全軍が下り行くと、敵が香久元彦(かぐもとひこ)を味方に招いたがそれに答えず、相模(さがみ;神奈川県)の小野(おの;神奈川県秦野市の辺りか?)に城をかまえて、香久元彦(かぐもとひこ)が穂積(ほづみ)テシと桜根(さくらね)マシと共に守りを固めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇41年6月頃(西暦111年7月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)6月頃(西暦251年7月頃)が正しい。)

穂積(ほづみ)テシと桜根(さくらね)マシは、香久元彦(かぐもとひこ)の部下だが、日本武尊(やまとたけのみこと)の従軍に付き従った武将のテチカ(左近)とマチカ(右近)の可能性があって、穂積(ほづみ)テシが穂積(ほづみ)氏なら、物部(もののべ)氏を指して、物部(もののべ)氏の子孫が多くて、誰か断定できない。

その小野の城に蝦夷(えみし;大和朝廷に反抗する一族の総称と思われる)の賊軍が攻め上ろうとした所で、裾野で日本武尊の全軍とぶつかり、蝦夷らが全軍をあざむいて、野原に火を放って全軍を攻め、逆に蝦夷らが炎に焼き滅ぼし、これにちなみこの野を焼けず野と名付け、この時に使った草を薙(な)ぎ切った剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けた。
天叢雲剣で草を薙ぎ切ったことから草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼んだと記すが、しょせん作り話にすぎず最初からそう呼ばれていたのだろう。
『日本書紀』に焼けず野を焼津(やいづ;静岡県焼津市)と名付けたと記すが、平定したのが神奈川県だから『日本書紀』の編者が口承から勘違いしたのが正しい。
静岡県は、古代天皇家の支配下で、神奈川県から平定したため、富士山を3世紀前半よりも前に天皇家が確認して、いつ頃に天皇家が富士山を確認したか、静岡県の考古学的証拠にかかっていると考えられる。

日本武尊の全軍は、勢いに乗じて、足柄山(あしがらやま;静岡県と神奈川県の県境の足柄峠を中心とする山地)を一気に攻め登り、相模の小野の城を香久元彦(おそらく香久元彦にたとえた若者)が固く守っていて蝦夷らが手を出せず、とうとう城の四方に薪(まき)を積み上げて、日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)の夏(西暦251年6月から8月頃)で、70日間の日照りを利用して火攻めをして、辺りが日照りで乾ききっていたので、火がみるみるうちに燃え広がった。
日本武尊は矢倉山(やぐらやま;足柄峠の東にある山)に登ってその様子を見て、吉備武彦を大礒(おおいそ;神奈川県中郡大礒町)に派遣し、大伴武日を大山の北を巡って相模の小野城に入れさせて守備を固めた。

日本武尊が矢倉山の山頂に立って神をスキ清めて、白橿(しらかし)の大刀を原見山(はらみやま;富士山)の頂に立つ天御柱(てんのみはしら)に見立てて、火水土(ひみづ)の清祓(きよはら)いを行ない、原見山(富士山)山頂の子の代池(しろいけ)の竜田姫神(たつたひめのかみ)が現れて、竜の雨を降らせて火を消して下さり、日本武尊の全軍が勇み立って敵の半数を討ち殺し、他の蝦夷らがことごとく逃げ去った。
香久元彦(おそらく香久元彦にたとえた若者)は小野城の門を開いて日本武尊を迎え入れて、ここにおいて香久元彦がホツマ国の万民に触れを出し、日本武尊に従わぬ者を即座に殺す旨(むね)を知らせると、各地の賊軍に脅(おびや)かされた民たちが、日本武尊の来訪を願い出て、こと始めとして12月8日に香久籠(かぐかご)を立てて武将たちに従う印とした。

東京都と埼玉県の平定
『ホツマツタエ』の武将たちは、相模国(さがみのくに;神奈川県)を平定した後で、景行(けいこう)天皇41年8月1日(日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)8月1日;西暦251年9月頃)に東海道に入ったが、東山道の武蔵国(むさしのくに;東京都と埼玉県)に入ったと考えられて、東京都と埼玉県を平定したと考えられて、2024年6月7日の夜に日付を求めた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇41年8月1日(西暦111年9月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)8月1日(西暦251年9月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』の吉備武彦(きびたけひこ)は、碓井(うすい)の坂(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町の境界の碓氷峠(うすいとうげ)で、東京湾で入水(じゅすい)自殺した弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲(しのぶ)ぶ分かれ道にいて、東海平定の武将たちと分かれて、越路(こしのみち;北陸地方への道)に進んで、北陸平定の総大将の武虎別皇子(たけこわけのみこ)と合流するために向かった。

吉備武彦(きびたけひこ)は、分かれ道から越路(こしのみち;北陸地方への道)に進んで、碓井(うすい)の坂(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町の境界の碓氷峠(うすいとうげ)が分かれ道で間違いなくて、東海平定の進軍中でなく、帰路に越路(こしのみち;北陸地方への道)に向かったと記すが、僕を騙(だま)せなかった。

日本武(やまとたけ)天皇の強行即位と進軍
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年9月に倭姫命(やまとひめのみこと)は、粥占(かゆうら)を持って、異母兄の誉津別命(ほむつわけのみこと)のことをお祈りした。
垂仁(すいにん)天皇23年9月2日に垂仁(すいにん)天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「先に生まれた誉津別命(ほむつわけのみこと)は、髭(ひげ)が生(は)える年頃になっても泣き泣いて言葉をしゃべらない。これはどうしたわけだろう」と、そして諸臣が集まって審議して、倭姫命(やまとひめのみこと)に祈らせることになった。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月(西暦251年10月頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)は、甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇のことを占(うらな)って、9月2日(10月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇が皇位継承権を狙って戦争して、倭姫命(やまとひめのみこと)が国賊と認定して、邪馬台国(大和国;やまとこく)が完全に敵と認識した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇23年9月(紀元前7年10月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月(西暦251年10月頃)が正しい。)

垂仁(すいにん)天皇23年は、西暦251年で、倭姫命(やまとひめのみこと)の異母兄の誉津別命(ほむつわけのみこと)が日本武(やまとたけ)天皇で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が海原を統治せず、母がいる黄泉国(よみのくに;地獄)に行きたくて、髭(ひげ)が生(は)える大人になるまで泣きわめいて、誉津別命(ほむつわけのみこと)とそっくりである。

垂仁(すいにん)天皇と狭穂姫(さほひめ)の息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は、日本武尊(やまとたけのみこと)を指して、物部(もののべ)氏の血筋の狭穂姫(さほひめ)と日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が物部(もののべ)氏の養子で、出雲王国(物部(もののべ)氏)つながりで証明された。

『ホツマツタエ』の崇神(すじん)天皇10年9月15日に大彦命(おおびこのみこと)一行は、那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)に至って、そこで少女が歌を歌って、誰かが崇神(すじん)天皇の皇位を狙っていると言うので、大彦命(おおびこのみこと)が引き返して、崇神(すじん)天皇の元に戻った。
9月17日に大彦命(おおびこのみこと)は、皇居に引き返して、那羅坂(ならさか)で少女が歌ったのを話して、諸臣で会議をして、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が賢くて、歌の意味を理解して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が謀反(むほん)を起こそうとして、妻の吾田媛(あたひめ)と共謀して、国を奪おうとしていると告げた。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月15日(西暦251年10月中旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、北陸の平定から駆け戻って、奈良市近郊の奈良坂に到着して、異母兄の日本武(やまとたけ)天皇を討伐するために帰還した。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に到着して、諸臣から事情を知って、日本武(やまとたけ)天皇が正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と息子で皇位継承者の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子で共謀して、それが国賊の全員と知った。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇10年9月15日と17日(紀元前88年10月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月15日と17日(西暦251年10月頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』7章は、スサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)がコマスヒメハヤコ(弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)と密通してたぶらかされて、コマスヒメハヤコがアマテルカミ(正しくはツキヨミ;景行(けいこう)天皇を神格化)の妻で、日本武尊(やまとたけのみこと)と妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫が皇位継承権争(日本武(やまとたけ)天皇の反乱)につながって、八岐大蛇(やまたのおろち)退治神話につながる。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)と大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)と吾田媛(あたひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)は、西暦251年の登場人物と証明した。
東海の平定中の日本武(やまとたけ)天皇は、父の景行(けいこう)天皇の死去を知って、従軍した吉備武彦(きびたけひこ)を連絡役として、北陸の平定に向かった武虎別皇子(たけこわけのみこ)の所に行かせて、日本武(やまとたけ)天皇が先に奈良県に帰還して、後で武虎別皇子(たけこわけのみこ)が奈良県に帰還して、反乱を知った筋書きである。

『ホツマツタエ』日付不明は、諸臣が審議して、すでに武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)と吾田媛(あたひめ)が軍を起こして、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が山城(京都府南部)からで、吾田媛(あたひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)と別の道から、同時に襲撃を開始した。
崇神(すじん)天皇の命令は、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を大坂に向かわせて、吾田媛(あたひめ)を討ち破って、ついに殺して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の討伐に大彦命(おおびこのみこと)と彦国葺(ひこくにふく)を向かわせた。
彦国葺(ひこくにふく)は、山城の和珥武髞(わにたけすき;奈良県添上郡南部)に忌瓮(いんべ;神酒(みき)を入れて神に供(そな)えるために清めた容器)を据(す)えて、天神地祇に祈って、兵を率(ひき)いて、戦いにのぞんで、木や萱草(かやくさ)を踏み進み分けて、那羅坂(ならさか;奈良市北郊の奈良坂)で勝利を収めて、皆で拍手を打って喜んだ。
また大彦命(おおびこのみこと)の兵は、下の道を行って、輪韓川(わからかわ;木津川か?)の岸で、胡床(あぐら)を据えて、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の軍と相対して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が川北に位置して、彦国葺(ひこくにふく)を見て言った。
「お前は何ゆえに我が軍を拒(こば)まんとするのか」「お前が天の道にそむくのを討とうと思うからだ」と、すると両者が先を争って矢を射たが、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が射た矢が当たらず、天津神(あまつかみ)の守護があってか、彦国葺(ひこくにふく)が射た矢が武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の胸を打ち抜いて殺した。
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の兵は、大将を殺されたので逃げ出そうとして、彦国葺(ひこくにふく)が追い打ちをかけて、すると残兵たちが「我君我君(わきみわきみ)」と叫(さけ)びながら流れるように逃げて行って、神軍が剣を収めて皇居に帰った。

『ホツマツタエ』で出雲振根(いずもふりね;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)は、吉備彦(きびひこ)と武渟別(たけぬわけ)の軍勢に討伐されて、武埴安彦(たけはにやすひこ;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)が彦国葺(ひこくにふく;武渟川別(たけぬなかわわけ)を祖先化)に矢で射(い)られて死んだと解釈して、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫が彦国葺(ひこくにふく)だから、物部(もののべ)氏の武渟川別(たけぬなかわわけ)が正しい。
和珥(わに)氏の彦国葺(ひこくにふく)は、崇神(すじん)天皇10年の登場人物で、垂仁(すいにん)天皇元年に彦国葺(ひこくにふく)の孫の潮乗津彦(しほのりつひこ)が登場して、彦国葺(ひこくにふく)が西暦251年に生きて、武渟川別(たけぬなかわわけ)が和珥(わに)氏と同じ物部(もののべ)氏の人物で、251年の彦国葺(ひこくにふく)が武渟川別(たけぬなかわわけ)に当たる。
倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、息子か孫ぐらいの世代が弟橘姫(おとたちばなひめ)を殺して、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の子孫が三尾君(みおのきみ)の先祖と考えられる。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)に進軍して、死に場所が分からなくて、日本武(やまとたけ)天皇が山城(京都府南部)から進軍して、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が討伐する武将に選ばれた。
東国平定で弟橘姫(おとたちばなひめ)は、神奈川県から海を渡って、千葉県に行こうとして、東京湾で入水(じゅすい)自殺したが、日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月17日以降から9月下旬(西暦251年10月頃)までに弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)付近で戦死して、夫の日本武(やまとたけ)天皇が翌年の仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、海を渡って、弟橘姫(おとたちばなひめ)が死ぬのが合致した。
東国平定は、弟橘姫(おとたちばなひめ)の戦死の後、日本武(やまとたけ)天皇出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)で戦死して、東京湾で弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水(じゅすい)自殺して、近畿地方に戻った日本武(やまとたけ)天皇が伊吹山(いぶきやま)で、毒蛇(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)に咬(か)まれて戦死して、どちらも戦場から戦場に向かう物語で合致する。

日本武尊(やまとたけのみこと)の東海平定は、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が同伴したのが嘘(うそ)で、弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水(じゅすい)自殺して、暴風を鎮(しず)めたのが嘘(うそ)である。

卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇10年メ月初日に詔(みことのり;天皇の言葉)して、「大和国内を平定したが、他国がまだ平定されず、四道(しどう)将軍が出発してほしい」と言って、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱の平定に向かった。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇40年10月2日に日本武尊(やまとたけのみこと)は、大和から伊勢路(いせじ)を進んで、10月7日に伊勢神宮の内宮と外宮を参拝して、磯宮(いそのみや;伊勢市の磯(いそ)神社)で倭姫命(やまとひめのみこと)に暇乞(いとまご)いして、日本武尊(やまとたけのみこと)に三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授(さず)けた。
(歴史学会(歴史書解釈)の崇神(すじん)天皇10年メ月初日(紀元前88年11月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月1日(西暦251年11月上旬頃)が正しい。
歴史学会(歴史書解釈)の景行(けいこう)天皇40年10月2日と7日(西暦110年11月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月2日と7日(西暦251年11月頃)が正しい。)


日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月2日(西暦251年11月上旬頃)に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、三重県伊勢市で、伯母(おば;父の姉)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、八岐大蛇(やまたのおろち;伊勢神宮の横を流れる五十鈴川(いすずがわ)を神格化した蛇神の滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視)の尻尾(しっぽ)から、三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を奪(うば)った。
出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、根(ね)の国下(くにくだ)り神話で、婿(むこ)養子の7代目・大物主神(大物主神;飯入根(いいいりね)を神格化)に生太刀(いくたち;八重垣剣(やえがきのつるぎ)か、草薙剣(くさなぎのつるぎ)のどちらか不明)を預(あず)けて、保管させたと考えられる。


卑弥呼(ひみこ)は、男王(だんおう)に殺されたとか、狗奴国(くぬこく)に敗戦して戦死したとか、皆既日食が原因で殺されたとか、病死とか色々な死去説がある。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月17日以降から10月1日(西暦251年10月頃から11月頃)は、奈良県内を平定して、日本武(やまとたけ)天皇の討伐に伊勢に向かった。
10月2日(西暦251年11月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、奈良県から伊勢に向かって、10月7日(11月上旬頃)に伊勢市の磯(いそ)神社で倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)殺しを意味する。

父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が高天原(たかまがはら;伊勢)にやって来て、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武装して対峙(たいじ)して、しばらく高天原(たかまがはら;伊勢)にいた素戔嗚尊(すさのおのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を傷(きず)つけて、怒(おこ)って天岩戸(あまのいわと)に隠(かく)れた。
女性の太陽神で、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺されて、太陽が天上の世界(天空)から消(き)えて、天岩戸(あまのいわと)を戸(と)で、塞(ふさ)いで隠(かく)れて、地上が暗闇(くらやみ)になって、困(こま)った諸神が会議をして、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が籠(こ)もる天岩戸(あまのいわと)の前(まえ)で、お祭りをして騒(さわ)いだ。
お祭りの騒(さわ)ぎで、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、天岩戸(あまのいわと)を開(ひら)いて、諸神が色々して、天照大神(あまてらすおおみかみ)を引(ひ)っ張(ぱ)り出して、地上に太陽の光(ひかり)が戻(もど)って、諸神が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の責任を追及して、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、これが天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話の史実・真実・真実である。
天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺されて、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が天岩戸(あまのいわと)から出て来て、その軍勢に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺されたのが出雲(いじも)の国譲(ゆずり)りの史実・真実・真実である。


倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害日は、2022年9月20日に判明して、『三国志・魏志倭人伝』で「卑弥呼(ひみこ)以(も)って死(し)す・・・男王(だんおう)立(た)つ」と記して、前後が逆転して、男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)が天皇に強行即位して、卑弥呼(ひみこ)で伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺したと求めて、ずっと確信した事実だった。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月7日(西暦251年11月上旬頃)に88才で亡くなった。
日本武(やまとたけ)天皇は、伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)を引退した伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授(さず)かったのが国賊の日本武(やまとたけ)天皇に強行即位した証拠で、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)を強奪したことを指す。
三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、元々が伊勢神宮内宮に奉納して、日本武(やまとたけ)天皇の反乱で、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)が強奪されて、三種の神器の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と入れ変わって記した。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、日本武(やまとたけ)天皇が皇位継承権を主張するため、優位に立てる発言力があって、斎王(さいおう)を引退しても、強い権限の持ち主で頼ったと考えられるが、どう考えても殺したと表現するしかない。

逃亡(とうぼう)した日本武(やまとたけ)天皇
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年10月8日に垂仁(すいにん)天皇は、高殿(たかとの)に立った時、傍(そば)にいた誉津別命(ほむつわけのみこと)が空を飛ぶ鵠(くぐい)を見て、「この鳥は何と言う鳥だ」と急にしゃべられた。
垂仁(すいにん)天皇は、大いに喜んで、「誰かこの鳥を捕らえられる者はいないか」とおっしゃって、湯河板挙(ゆかわたな)が「手前がこの鳥を捕らん」と進み出て、「もし捕らえれば誉(ほ)めてつかわす」と言われた。
湯河板挙(ゆかわたな)は、鵠(くぐい)の飛んで行く方向を追い求めて、但馬路(たじまじ;兵庫県北部)を出雲に向かって、宇夜江(うやえ;島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)の地で、遂(つい)に捕かまえた。

倭姫命(やまとひめのみこと)を殺した翌日の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月8日(西暦251年11月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、磯宮(いそのみや;伊勢市の磯(いそ)神社)の側(そば)にいて、遊撃する息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)と共に伊勢から逃げて、仲哀(ちゅうあい)天皇に進み出た湯河板挙(ゆかわたな)に日本武(やまとたけ)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子を討伐すれば、誉(ほ)めてつかわすと言われた。
(歴史学会(歴史書解釈)の垂仁(すいにん)天皇23年10月8日(紀元前7年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月8日(11月上旬頃)が正しい。)

垂仁(すいにん)天皇23年(日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)の西暦251年)は、誉津別命(ほむつわけのみこと)が日本武(やまとたけ)天皇で、鵠(くぐい)が息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)で、日本武(やまとたけ)天皇の反乱(皇位継承権争い)を証明する。
鵠(くぐい)の飛んで行った方向は、但馬路(たじまじ;兵庫県北部)を出雲に向かって、宇屋江(うやえ;島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)で捕らえられて、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命する日本武(やまとたけ)天皇が兵庫県北部の方向に逃げて、海路で日本海から出雲に行って、西暦260年の出雲王国の崩壊で、日本武(やまとたけ)天皇の戦死した場所が宇屋谷(うやだに)と考えられる。

但馬(たじま;兵庫県北部)から出雲へ逃げるのは、島根県の隠岐島(おきのしま)から鳥取市の気多岬(けたのみさき)に渡った因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)神話と共通して、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国に亡命するため、日本海側に逃げた証拠である。

卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)のお墓(はか)
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇10年10月22日は、越(こし;北陸)やホツマ(東海)や丹波(たには;古代の京都府北中部)の国などに再征して、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になった。
大物主神(おおものぬしのかみ)は、いつも夜に来て、昼に来なくて、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が「私はいまだ我が君の姿を見られない。
夜が明けたら君の姿を見たいです」と言った。
神は告げて、「そなたの言い分はもっともだ。
私は明け方に櫛笥(くしげ;櫛や化粧道具を入れる箱)に入っている。
我が姿を見ても決して驚くな」と言って、姫が心あやしく思って、明くる朝に神の言うとおりに櫛笥(くしげ)を開けて見ると、小さな蛇がいた。
姫は驚いて、約束を忘れて叫び泣いて、大物主神(おおものぬしのかみ)が大きく恥じて、人の姿に戻って、「お前は我慢できなかった。
私は恥をかかされた」と言って、大空を踏みながら三輪山(みわやま)へ帰って行って、姫がそれを仰ぎ見て、夫に恥をかかせて悔やんだ。
姫は驚愕して、膝(ひざ)をついて腰を下ろすと、箸(はし)で陰部を突いて亡くなって、姫の亡骸(なきがら)を大市(おいち;桜井市北部)に納(おさ)めて、箸塚(はしづか)を立てた。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月22日(西暦251年11月下旬頃)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の殺害から半月後で、伊勢神宮の斎王(太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の倭姫命(やまとひめのみこと)を倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に祖先化して、古代太陽神の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の妻として、この日が倭姫命(やまとひめのみこと)の葬礼日である。
(歴史学会(歴史書解釈)の崇神(すじん)天皇10年10月22日(紀元前88年11月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)が正しい。)

7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)は、祭る奈良県桜井市の三輪山(みわやま)へ帰って、妻の倭姫命(やまとひめのみこと)が甥の日本武(やまとたけ)天皇に殺されて、大市(おいち;桜井市北部)の箸塚(はしづか;箸墓(はしはか)古墳)に葬礼したが、完全な嘘(うそ)である。
日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月22日(西暦251年11月下旬頃)の倭姫命(やまとひめのみこと)の葬礼日は、三重県伊勢市の磯(いそ)神社で殺害されて、伊勢市に葬礼した可能性が高くて、箸塚(はしづか;箸墓(はしはか)古墳)が卑弥呼(ひみこ)でも、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓(はか)でない。
倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)は、宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宮内庁指定の古墳が間違いで、宇治が三重県伊勢市宇治館町(うじやかたちょう)1番地の伊勢神宮内宮を指して、殺害場所の伊勢市の磯(いそ)神社と陵墓名から考えて、三重県伊勢市の古墳に葬礼した可能性が高くて、古墳の形が分からなくて、3世紀中頃の築造年代が判明した。

古代太陽神の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)は、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化して、妻の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化して、僕の自論が100%正しい。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の名前は、倭(やまと;大和)の迹(あと;東海平定)の迹(あと;伊勢)で、日(ひ;伊勢神宮の巫女;みこ)が百人に襲(おそ)われた姫(ひめ)の命(いのち)と解釈できて、日本武(やまとたけ)天皇が大和から東海平定に行って、戻って来て伊勢で、倭姫命(やまとひめのみこと)を襲撃して、殺したことを示す。

千葉県と茨城県の平定
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇41年10月(日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)10月;西暦251年11月頃)は、相模(さがみ;神奈川県)を平定した武将たちが大礒(おおいそ;神奈川県中郡(なかぐん)大礒町(おおいそまち)から、海路を船団で、上総(かずさ;千葉県中部)に渡って上陸して、榊(さかき)の枝に鏡を掛けて、経津主神(ふつぬしのかみ)の子孫の香取時彦(かとりときひこ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)の子孫の鹿島秀彦(かしまひでひこ)と息栖弟彦(いきすおとひこ)が待っていた。
この海を渡る時に皇軍は、強風で渡れず、弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身投げして、生贄(いけにえ)に入水(じゅすい)自殺して、強風が治(収;おさ)まって、見事な偽装工作をしたが、超天才の僕を騙(だま)せず、2024年6月7日の夜に日付を求めた。

香取時彦は、経津主神の武渟川別(たけぬなかわわけ)で、鹿島秀彦が武甕槌神の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、千葉県から茨城県の平定が記録になく、『常陸国風土記』などに登場する普都大神(ふつのおおかみ;経津主神)と鹿島大神(かしまのおおかみ;武甕槌神)の記述を信頼するしかない。
日本武尊に随伴したと考えられる武将の武渟川別と初代・武内宿禰は、景行(けいこう)天皇の孫と曾孫で武家の物部(もののべ)氏の血筋にあり、西暦250年頃に共に20歳前後の若さだと考えられるが、圧倒的な武勇の高さから日本神話の双璧(そうへき)の軍神(いくさがみ)に神格化された。
経津主神と武甕槌神の武勇の高さは、千葉県香取市の香取(かとり)神宮に祭る経津主神と茨城県鹿嶋市の鹿島(かしま)神宮に祭る武甕槌神からうかがえて、出雲の国譲り神話でも活躍するからよく分かる。

皇位継承者の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の戦死
『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月1日は、仲哀(ちゅうあい)天皇が諸臣に詔(みことのり;天皇の言葉)して、「自分がまだ20歳にならない時に父が亡くなった。
父の魂は白鳥になって天に上った。慕(した)い思う日は一日も休むことがない。
それで白鳥を陵(みささぎ)の周りの池に飼(か)って、その鳥を見ながら父を偲(しの)ぶ心を慰(なぐさ)めたいと思う」と言って、諸国に命令して、白鳥を献上させた。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月1日(西暦251年12月上旬頃)は、仲哀(ちゅうあい)天皇の異母弟の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が諸国に伝令して、父の日本武(やまとたけ)天皇(白鳥)と合流しようとした。
(歴史学会(歴史書解釈)の仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月1日(西暦192年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月1日(西暦251年12月上旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年11月2日(紀元前7年12月上旬頃)は、鵠(くぐい)を誉津別命(ほむつわけのみこと)に奉(たてまつ)ると、喜んで鵠(くぐい)と遊びたわむれて言葉を話して、垂仁(すいにん)天皇がいたく湯河板挙(ゆかわたな)を誉(ほ)めて、鳥取部(とりとりべ)の姓(かばね;豪族が授かった呼び名)を与えた。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月2日(西暦251年12月上旬頃)は、息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が父の日本武(やまとたけ)天皇が山城(京都府南部)で合流した。
日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月2日(西暦251年12月上旬頃)は、誉津別命(ほむつわけのみこと)が日本武(やまとたけ)天皇で、鵠(くぐい)が息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)で、誉津別命(ほむつわけのみこと)と鵠(くぐい)の合流と解釈すべきである。
(歴史学会(歴史書解釈)の垂仁(すいにん)天皇23年11月2日(紀元前7年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月2日(西暦251年12月上旬頃)が正しい。)

『日本書紀』仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日は、越(こし)の国(北陸)から白鳥4羽を献上して、白鳥を献上した使者が宇治川の畔(ほとり)に宿(やど)を取って、蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)がその白鳥を見て、「どちらに持っていく白鳥か」と問うて、越(こし)の人が答えて、「天皇が父を恋しく思われて、飼いならそうとしておられるので奉(たてまつ)るのです」と言った。
蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、越(こし)の使者に「白鳥と言っても焼くと黒鳥になるだろう」と言って、無理矢理に白鳥を奪って、越(こし)の使者がそれを報告して、仲哀(ちゅうあい)天皇が蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が先王に対して、無礼なのを憎(にく)んで、兵を派遣して殺した。
時の人は言って、「父(日本武(やまとたけ)天皇)は天で、兄(仲哀(ちゅうあい)天皇)が天皇である。
天を侮(あなど)って、君に叛(そむ)いたなら、どうして罪(つみ)を免(まぬが)れようか」と。
(歴史学会(歴史書解釈)の仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日(西暦192年12月上旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)が正しくて、『日本書紀』が古代中国の太陰太陽暦に閏年(うるうどし)がなくて、ヨーロッパの太陽暦のユリウス暦に閏年(うるうどし)があると知って、記したと考えて間違いない。
太陰太陽暦の閏月(うるうづき)は、太陽暦のユリウス暦の閏年(うるうどし)と日付がズレて、仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日の意味が重要で、「記紀」が太陽暦の西暦年を使用したと超天才の僕が証明した。)


日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月4日(西暦251年12月上旬頃)は、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が宇治川の畔(ほとり)に布陣して、日本武(やまとたけ)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が合流して、両軍が戦争して、蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、父の日本武(やまとたけ)天皇が逃亡して、仲哀(ちゅうあい)天皇が蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を討伐した湯河板挙(ゆかわたな)を誉(ほ)めて、鳥取部(とりとりべ)の姓(かばね)を与えた。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月4日(西暦251年12月上旬頃)は、越(こし)の国(北陸)に向かったのが武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、献上した白鳥4羽が東海平定に向かった武将4人(吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の意味)で、間違いなく日本武(やまとたけ)天皇の反乱を指す。
蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、白鳥を焼くと黒鳥になるだろうと言ったのが白鳥の父(日本武(やまとたけ)天皇)と自分が黒鳥になって、兄(仲哀(ちゅうあい)天皇)に対する謀反(むほん;皇位継承権争い)を意味する。
日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)9月17日から9月末日(西暦251年10月頃)までは、大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)の近くで、母の弟橘媛(おとたちばなひめ)が戦死して、11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、母子共に戦死して、父の日本武(やまとたけ)天皇が逃亡した。
日本武(やまとたけ)天皇の皇位継承権争い(内乱)は、伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺害して、9年間の2朝廷並列時代を生み出して、最初の罪(つみ)の不倫が水に流れたが、2度目がなかった。

日本武(やまとたけ)天皇元年(成務(せいむ)天皇元年)11月4日(西暦251年12月上旬頃)に息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は戦死して、父の日本武(やまとたけ)天皇が京都府北部の海岸から出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、京都府北部と鳥取県が日本海側で、それを島根県の隠岐島(おきのしま)から鳥取市の気多岬(けたのみさき)に渡った因幡(いなば;鳥取県東部)の白兎(しろうさぎ)神話に変換したと考えられる。

2020年9月12日に僕は、西暦251年の日本武(やまとたけ)天皇の反乱で、日本武(やまとたけ)天皇と息子の仲哀(ちゅうあい)天皇以外に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が皇位継承者の可能性に気付いて、日本武(やまとたけ)天皇と弟橘媛(おとたちばなひめ)の息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、異母兄の仲哀(ちゅうあい)天皇と同じ皇位継承者で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の武将でもあって、西暦251年の奈良県にいたと考えられる。

『三国志・魏志倭人伝』は、「卑弥呼以死…更立男王、国中不服、更相誅殺、當時殺千余人」と記して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して…日本武尊(やまとたけのみこと)が天皇(男王;だんおう)に強行即位して、皇族たちが反対して認められず、互いに殺し合って、当時千人余りが戦死したと解釈できる。

『三国志・魏志倭人伝』が記す男王(だんおう)の反乱(日本武(やまとたけ)天皇の反乱)は、「記紀」が隠(かく)す古代天皇家の最大の汚名(おめい)で、超天才の僕以外に誰(だれ)も特定できず、超重要な歴史の再現である。

西暦252年の仲哀(ちゅうあい)天皇の即位と正妻の神功(じんぐう)皇后
仲哀(ちゅうあい)・・・仲(なか)の哀(かな)しい天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した父親の日本武(やまとたけ)天皇と対立したためで、邪馬台国(大和国;やまとこく)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇の2朝廷並列時代が成立して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代天皇家が漢字を使い始めて、仲哀(ちゅうあい)の漢字の意味を知っていたのが間違いない。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、祖父の景行(けいこう)天皇の皇居である滋賀県の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、4代目天皇に即位した。同日に物部(もののべ)氏の血筋の神功(じんぐう)皇后は、正妻(皇后)に迎(むか)えて、仲哀(ちゅうあい)天皇元年が干支(えと)の壬申(みずのえさる)の年で、西暦252年で間違いなくて、正妻(皇后)に迎(むか)えた年月を2024年6月7日の夜に求めた。
(『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇即位年は、干支(えと)の壬申(みずのえさる)の年で、歴史学会(歴史書解釈)の定説の仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦192年2月中旬頃)が完全な間違いで、僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)が正しい。)

神功(じんぐう)・・・神の功(いさお)の皇后は、神様の功績が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)などを指して、神様に例(たと)える功績が天皇家最長の69年間の政治をしたなど色々と意味する。
神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に正妻(皇后)に迎(むか)えたが、仲哀(ちゅうあい)天皇2年7月5日(西暦253年8月上旬頃)に京都府宮津市で、長男の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を出産したと考えられて、計算が合わないため、仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日に皇后になったのが正しい。

仲哀天皇は父親が日本武尊(やまとたけのみこと)で、母親が朝廷別王(みかどわけのみこ)の娘の両道入姫(ふたじいりひめ)と考えられて、名前を足仲彦(たりなかひこ)で、諱(いみな)を橿杵(かしきね)と言う。

仲哀(ちゅうあい)天皇元年9月1日(西暦252年10月上旬頃)に母親の皇后を尊んで、皇太后と呼んで、仲哀(ちゅうあい)天皇の生母の両道入姫(ふたじいりひめ)が日本武尊(やまとたけのみこと)のを皇太后にして、皇后の伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)から、日本武尊(やまとたけのみこと)の正妻が弟橘姫(おとたちばなひめ)と考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)の皇太子妃(正妻)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、7人の息子を生んで、息子の一人の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が皇位継承者で、景行(けいこう)天皇58年3月1日(西暦248年4月上旬頃)か景行(けいこう)天皇59年3月1日(西暦249年4月上旬頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)を皇太子妃(正妻)にして、開化(かいか)天皇の皇后が伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)で、まず間違いないと考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)の孫である多牟屋(たんや)は、娘が両道入姫(ふたじいりひめ)で、『ホツマツタエ』で多牟屋(たんや)が多牟屋別(たんやわけ)とも書かれて、『古事記』から求めて海部(あまべ)氏の朝廷別王(みかどわけのみこ)で、淡夜別命(たんやわけのみこと)とも記すと考えられる。
景行天皇が足彦(たりひこ)で、息子の日本武尊が稚足彦(わかたりひこ)で、孫の仲哀天皇が足仲彦(たりなかひこ)で、祖父と子と孫までの3世代で足(たり)の字が使われて、「足(たり)」王朝と呼ぶ学者もいるが、全ての人物は景行天皇と成務(せいむ)天皇と仲哀天皇が親子関係にないと考えて、「足」王朝が成立しないと思い込む。

豊姫尊(とよひめのみこと)の神功(じんぐう)皇后は、邪馬台国(やまとこく)論争の台与卑弥呼(とよひみこ)で、父を景行(けいこう)天皇の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、母を葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)で、初めて皇室の直系系図に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を加えた。
母の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)は、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の子孫で、神功(じんぐう)皇后の両親が共に彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫で、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏である。

孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)5年6月は、景行(けいこう)天皇5年6月(西暦195年7月頃)で、欝色謎命(うつしこめのみこと;高田媛(たかだひめ)を祖先化)が日本阿閇大彦命(やまとあへおおひこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)を生んだ。
神功(じんぐう)皇后は、景行(けいこう)天皇38年頃(西暦年228年頃)生まれで、摂政元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に33才で、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に99才で亡くなった計算になる。
景行(けいこう)天皇5年6月(西暦195年7月頃)に景行(けいこう)天皇と高田媛(たかだひめ)は、武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、武虎別皇子(たけこわけのみこ)と葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)が景行(けいこう)天皇38年頃(西暦年228年頃)に長女の神功(じんぐう)皇后を生んだ計算になる。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)から見て、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、生涯独身で子孫がいなくて、母方で天照大神(神功(じんぐう)皇后を神格化)の血筋を受け継いで、現在の皇室が父系(男系)の天照大神を直系先祖とするが嘘(うそ)で、母系(女系)の天照大神を直系先祖とするのが真実である。
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が直系の皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)を意味する呼び方で、母方の天照大神(神功(じんぐう)皇后を神格化)の女系天皇に相応(ふさわ)しいと考えられる。
神功(じんぐう)皇后は、女性天皇(女帝)の神功(じんぐう)天皇と名付けて、女性天皇や女系天皇の根拠として、女系男子天皇や女系女子天皇を認めるべきだと僕は思う。
豊姫尊(とよひめのみこと)の神功(じんぐう)皇后は、台与(とよ)の呼び方が正しくて、壱与(いよ;いちよ)の呼び方が間違いで、神功(じんぐう)皇后を神格化した栲幡千千姫(たくはたちちひめ)が別名の神名を万幡豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ)で、神功(じんぐう)皇后の祖母の高田媛(たかだひめ)を神格化した『ホツマツタエ』の神名がトヨヒメアヤコ(豊姫紋子)など、豊(とよ)が多く使われるためである。

天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、皆既日食の発生した西暦247年3月24日と248年9月5日の早朝のどちらかに卑弥呼(ひみこ)が殺された説があるが、全く何の根拠も無い架空の推論で、日本神話を完全解釈した僕の自論を否定できるわけがない。
天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)の交代を神話化して、現在の皇室が神功(じんぐう)皇后の子孫で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ)の女系男子天皇である。
神功(じんぐう)皇后は、女系男子天皇の根拠で、女系天皇や女性天皇を認めさせるために女性天皇(女帝)に数えて、歴代天皇に加えるべきと進言する。


仲哀天皇元年(西暦252年)から9年(西暦260年)年は、魏王朝の下賜品が福岡県を横断して持ち帰って、出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇に奪われないため、中国地方を避けるルートで説明できる。

仲哀(ちゅうあい)天皇の即位は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の父の日本武(やまとたけ)天皇と対立した2朝廷並列時代の始まりである。

出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した日本武(やまとたけ)天皇
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇41年2月8日は、日本武尊(やまとたけのみこと)がマチカ(右近)とテチカ(左近)の家臣2人に弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛(くし)と帯(おび)を渡して、弟橘媛(おとたちばなひめ)の死をなげいて祭った。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、碓井(うすい)の坂(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町の境界の碓氷峠(うすいとうげ)で、東京湾で入水(じゅすい)自殺した妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)を想(おも)って、吾妻(あづま;我が妻の意味)の歌を3度詠(よ)んでなげいて、これが東国(あずまのくに;吾妻国:あづまのくに)の名前の始まりと言う。
(歴史学会(歴史書解釈)の景行(けいこう)天皇41年2月8日(西暦111年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)が正しい。)

仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、家臣のマチカ(右近;桜根(さくらね)マシか?)とテチカ(左近;物部(もののべ)氏の穂積(ほづみ)テシか?)に妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛(くし)と帯(おび)を渡して、弟橘媛(おとたちばなひめ)の死をなげいて祭った。
出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇は、弟橘媛(おとたちばなひめ)が戦死した奈良県が東にあって、吾妻(あづま;我が妻の意味)の歌を3度詠(よ)んだが、島根県から東(あずま)の奈良県を見たため、東日本の東国を指さないのが明白である。

マチカ(右近)とテチカ(左近)は、仲哀天皇元年2月8日(西暦251年3月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇に従軍した家臣で、神奈川県の平定が70日間の日照りを利用して火攻めをして、天皇不在の年6月頃(西暦251年7月頃)に神奈川県の平定に桜根(さくらね)マシと穂積(ほづみ)テシが参加して、マチカとテチカが同一人物の可能性がある。
マチカ(桜根(さくらね)マシ;日本武尊(やまとたけのみこと)の家臣のマチカ(右近)か?)とテチカ(穂積(ほづみ)テシ;物部(もののべ)氏の人物で、日本武尊(やまとたけのみこと)の家臣のテチカ(左近)か?)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した主君の日本武(やまとたけ)天皇の命令で、神奈川県の平定に別名で参加して、同一人物と思わせる偽装工作をして、穂積(ほづみ)テシが穂積(ほづみ)氏なら、物部(もののべ)氏を指すと考えられて、物部(もののべ)氏の子孫が多くて、誰か断定できない。
仲哀天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇に従軍した家臣のマチカ(右近)とテチカ(左近)は、天皇不在の年6月頃(西暦251年7月頃)に神奈川県の平定に桜根(さくらね)マシと穂積(ほづみ)テシと同一人物なら、出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇が邪馬台国(大和国;やまとこく)側で、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇に協力する姿勢があったと考えられる。
家臣のテチカは、物部(もののべ)氏の穂積(ほづみ)テシなら、島根県と神奈川県を行き来して、物部(もののべ)氏の武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)でないと考えられる。

京都府北部から出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した日本武(やまとたけ)天皇は、隠岐島(おきのしま)から鳥取市の気多岬(けたのみさき)まで、鮫(さめ;日本武(やまとたけ)天皇を追いかける武将や船団を神格化)の頭を飛(と)んで、渡(わた)った因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を指して、日本武(やまとたけ)天皇の逃亡劇を神話化した史実(歴史上の事実)である。

出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した日本武(やまとたけ)天皇は、国賊の日本武(やまとたけ)天皇を美化して作った偽装工作で、僕以外に誰も求められなかった。

日高見国(ひだかみのくに)の平定
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇27年2月13日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日;西暦252年3月中旬頃)は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)の男女が髪を総角(あげまき)にして、体に入(い)れ墨(ずみ)をして、荒々しく興奮(こうふん)していると述べて、討伐に乗り出して、2024年6月8日の朝に日付を求めた。
天児屋命(あまのこやねのみこと)の子孫の大鹿島(おおかしま;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を祖先化)は、武将たちに御饗(みあえ)を捧(ささ)げて、後に葦浦(あしうら;千葉県鴨川市江見吉浦)を越えて、勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)に入って、そこの仮宮で休息して、景行(けいこう)天皇27年2月13日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日;西暦252年3月中旬頃)に勿来(なこそ)入りして、日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)に含(ふく)む結論を出す。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇27年2月13日(西暦98年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日(西暦252年3月中旬頃)が正しい。)

日高見国(ひだかみのくに)は、よく「日の上の国(日の昇(のぼ)る国)」と解釈して、東北地方南部のどこかで、どの辺りの土地を指(さ)すか、研究し続けて諸説あって、結論が出てないが、宮城県石巻市の日高見(ひたかみ;ひだかみ)神社の存在と、『ホツマツタエ』の勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)を照合して、宮城県石巻市から福島県いわき市の付近と推定して、2026年2月8日の午後3時頃(3時から1時間半ほどして、時計確認した時間予測で、曖昧(あいまい)である)に特定した。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇41年10月(正しくは日本武(やまとたけ)天皇元年10月;西暦251年11月頃)は、相模(さがみ;神奈川県)を平定した武将たちが海路を船団で、上総(かずさ;千葉県中部)に渡って上陸して、『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇27年2月13日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日;西暦252年3月中旬頃)に勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)に上陸して、時期的な前後関係の予測で、日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)に勿来(なこそ;福島県いわき市勿来:なこそ)を含(ふく)むと考えられる。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇27年の月日不明(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦253年)の月日不明(僕が予測した時期)は、国造(くにみやつこ;統治者)5人が新治宮(にはりのみや;茨城県新治郡の宮殿)に向かって、甲斐(かい;山梨県)を平定して、群馬県も平定して、信濃(しなの;長野県)の木曽(きそ)を進軍して、『日本書紀』景行(けいこう)天皇40年7月16日(仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月16日;西暦253年8月中旬頃)に古代天皇家の領土の美濃(みの;岐阜県南部)に入ったと考えられる。

総角(あげまき)は、古代から平安時代にかけての未成年男子の髪型の一つで、髪を中央から左右に分けて、両耳の上に巻いて輪を作って、角のように突き出した物で、別名を角髪(美豆良;みずら)とも言いって、男子埴輪(はにわ)の髪型の一種でもあって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日(西暦252年3月中旬頃)の古墳時代初頭に東北地方南部で、髪形を総角(あげまき)にしたのが『ホツマツタエ』の記述通りと考えられる。
入(い)れ墨(ずみ)やタトゥーは、針(はり)などで皮膚(ひふ)に傷(きず)を付けて、墨(すみ)・煤(すす)・朱(しゅ)などの色素で着色して、文様(もんよう)・文字(もじ)・絵柄(えがら)などを描(えが)く手法で、同(おな)じく古墳時代初頭の東北地方南部に存在して、日本最古級の入(い)れ墨(ずみ)の記録と考えられる。

崇神(すじん)天皇時代の四道(しどう)将軍の派遣は、大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)が越(こし;北陸)平定の総大将で、息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)が東海(一般的に岐阜県と静岡県と愛知県と三重県の4県を指(さ)す)平定の将軍(正しく判明した土地は、神奈川県と東京都と千葉県と茨城県と福島県と宮城県を平定した)として出陣した。
天児屋命(あまのこやねのみこと)の子孫の大鹿島(おおかしま;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を祖先化)は、藤原氏の先祖で、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の次男で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の武将でもあって、東海平定の武将の一人でもある。
『ホツマツタエ』は、茨城県の平定が記録になくて、そのまま北上して、福島県いわき市勿来(なこそ)に入ったと記して、茨城県の平定が『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』を参考にできると考えられる。

『ホツマツタエ』6章の樋之速彦神(ひのはやひこのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と同一神で、天照神(あまてるかみ;月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)から、「お前が国の絵(え)を写(うつ)して製作しろ」と命じられた。
樋之速彦神(ひのはやひこのかみ)は、日本中を津々浦々(つつうらうら)まで巡り見て、全部を絵(え)に描いて、天照神(あまてるかみ)の元に持ち帰った。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、曾祖父の景行(けいこう)天皇の命令で、東国平定の武将として、東国を討伐するために巡り歩いて、国土の縮尺図を作成した可能性があって、『ホツマツタエ』6章の記述を裏付ける証拠である。

『古事記』で大毘古命(おおびこのみこと)と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が相津(あいづ;福島県会津(あいづ)地方)で、出会ったと記す。
参考文献『邪馬台国の考古学』(著者・石野博信 発行・株式会社吉川弘文館)によると、福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳と考えられて、西暦191年頃葬礼の垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳から考慮すると、1世紀余りで前方後円墳が奈良県から東北地方南部まで至って、古代天皇家の実在を考えない方がどうかしている。
同参考文献『邪馬台国の考古学』で宮城県名取市の飯野坂古墳群と山形県南陽市の蒲生田山3号墳と4号墳は3世紀後半から末の前方後方墳で、東北地方南部の宮城県と山形県と福島県が3世紀後半の古墳時代に入って、古代天皇家の東北地方南部の平定を証明する重要な物証である。
東北地方南部の宮城県は、『ホツマツタエ』や「記紀」の日本武尊(やまとたけのみこと)が平定した土地で、仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日(西暦252年3月中旬頃)以降の東北地方南部の平定が正しくて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した。

東海平定の武将は、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)の5人で、食事係が比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)で、北陸平定の総大将が武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、従軍した武将が彦狭島命(ひこさしまのみこと)で、福島県会津盆地で合流して、宮城県と山形県を平定したと考えられる。

関東地方平定の2軍神の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、東北地方南部を道案内したのが塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)で、宮城県塩竈(しおがま)市の鹽竈(しおがま)神社に塩土老翁(しおつちのおじ)を祭る。

年代不明で日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)の陸奥(みちのく)と島津道彦(しまづみちひこ)の二人は、国造(くにみやつこ)5人と県主(あがたぬし)174人とその配下の何万人もの兵士と共に、タケの港にて討伐する武将たちの軍の行く手をはばんだ。
時に武将たちは、大伴武日(おおとものたけひ)を派遣して島津道彦を呼び寄せ、首領の島津道彦がはじめから武将たちの力強い勢いを恐れて、弓矢を捨てて武将たちの前に平伏して服従を誓った。
大伴武日は再び首領の陸奥の所に勅使(ちょくし)として行き、陸奥が館の門に大伴武日を迎え出て問答をした。
その問答は、かつて日高見の国が遠い皇室の祖先神のタカミムスビが国を開いて、天皇家の祖先神で太陽神のアマテルカミ(天照神)でさえこの地で道の奥義(おうぎ)を学ばれて故に日高見と呼ぶのであり、なぜこの土地を奪おうとやって来たのかと問いただされて、大伴武日が陸奥に説(と)いて、これを聞いて陸奥と配下の者も一同に畏(おそ)れ平伏して、服従の意をあらわにした。
陸奥はタカミムスビのはるかな子孫とされるが、東北地方南部が天皇家の統治下になく、タカミムスビとして神格化される人物が存在しないのである。
東北地方南部を統治したのは7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の息子フトタマ(武渟川別を神格化)の子孫の阿倍(あべ)氏だと考えられて、初代から6代目のタカミムスビが東北地方南部と無関係である。

後に武将たちは陸奥を許して、陸奥を国の神として勿来以北を統治させて、百県の初穂を宮中に奉納させて、また津軽(つがる;青森県)を島津道彦に統治させて、蝦夷(えみし)たちを服従させて、70県の初穂を奉納させた。
津軽の平定は後世の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)がして、『ホツマツタエ』の記述が間違っている。
東北地方の平定は西郷隆盛(さいごうたかもり)の江戸城の無血開城(むけつかいじょう)のように『ホツマツタエ』に記すが、そうでなく必死な抵抗の流血があったと考えられる。

日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)の平定は、『ホツマツタエ』の記述を考古学的証拠で実証して、学術的な見地から史実・真実・事実である。

西暦254年の東日本平定の終了(追加)
残った武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の2人は、信濃(しなの;長野県)の木曽(きそ)を進軍して、そこの敵を討伐して、『日本書紀』景行(けいこう)天皇40年7月16日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月16日;西暦254年8月中旬頃)で、古代天皇家の支配地の美濃(みの;岐阜県南部)に入って、そのまま皇居に帰還して、東国平定の終了となって、2026年2月8日の午後4時台に年代を訂正した。
『日本書紀』景行(けいこう)天皇40年7月16日は、景行(けいこう)天皇60年7月16日(西暦250年8月中旬頃)と仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月16日(西暦254年8月中旬頃)と合致させて、武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の2人が長野県を平定して、帰還するのを勘違いさせた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇40年7月16日(西暦110年7月中旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月16日(西暦254年8月中旬頃)が正しい。)

日本武尊(やまとたけのみこと)の信濃(しなの;長野県)平定は、白い犬(ニホンオオカミ)の大口真神(おおぐちまかみ)が登場して、八百万(やおよろず)の神々の一神で、「真(まこと)の神」や「正しい神」を意味して、御神犬(ごしんけん)とも呼んで、日本各地に祭られる。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月15日(西暦254年8月中旬頃)までには、長野県を平定して、翌日16日に古代天皇家の支配地の美濃(みの;岐阜県南部)に入った。

『日本書紀』景行(けいこう)天皇43年(仲哀(ちゅうあい)天皇3年;西暦254年)は、東国(とうごく;東日本の中部地方から東北地方南部)平定が終戦して、『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇54年9月30日(仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日;西暦254年10月下旬頃)に東国(東日本)を平定した将軍たちが仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居である京都府宮津市の丹波由良宮(たんばゆらのみや)に帰還して、2026年2月8日の午後4時台に年代を訂正した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇54年9月30日(西暦124年10月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)が正しい。)

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借

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