総合的な東日本平定神話
青字は、日本神話の原文を僕が書き直した現代日本語訳で、赤字が僕の現代日本語訳の解釈文で、黒字が僕の完全解釈した説明文などである。
2026年2月3日の午前4時15分頃から午前7時10分頃の間(あいだ)に僕が気付いたことは、僕がまだホームページ更新してない『日本神話の完全解釈』の段落で、『総合的な東日本平定神話』の章の修正中に『ホツマツタエ』8章の「経津主(ふつぬし)の根国(ねのくに)平定神話」の名称を名付けたことで、おそらく2月6日から2月8日までに『日本神話の完全解釈』の章を求めて、章の中で『総合的な東日本平定神話』の記述修正の途中に盗(ぬす)まれたと考えられるノートとの関連性に気付いた。
盗(ぬす)まれたと考えられる6冊目のノート『ホツマツタエ解釈2』は、「経津主(ふつぬし)の根国(ねのくに)平定神話」を2026年2月の完全解釈がまだ途中で、同じく盗(ぬす)まれたと考えられる7冊目のノート『ホツマツタエ解釈3』と同様に現在の僕本人でも、特定できない可能性があると直感(直観)して、犯人探しとノートの捜索(そうさく)が国家規模レベルの一大事である。
しかる後に再び急の使者は、根国(ねのくに;北陸)から駆(か)け付けて、立山(たてやま)にハタレ魔軍が出現して、天照神(あまてるかみ)に報告して、神軍が根国(ねのくに;北陸)のアノ(場所不明)に至って、作戦会議を開いた。
そこでまずは、経津主(ふつぬし)に攻撃させて、蛟(みずち)の霊力を操(あやつ)るイソラ道(みち)が妖術で、野山を変化させて、叢雲(むらくも)を起こして、さらに幾つもの日の輪(わ)を顕(あら)わして、経津主(ふつぬし)を驚(おどろ)かせた。
しかる後に再び急の使者は、根国(ねのくに;北陸)から駆(か)け付けて、立山連峰(たてやまれんぽう;富山県の北アルプス(飛騨(ひだ)山脈)の山)にハタレ魔軍が出現して、天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)に報告して、神軍が根国(ねのくに;北陸)のアノ(場所不明)に至って、作戦会議を開いた。
そこでまずは、経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)に攻撃させて、蛟(みずち)の霊力を操(あやつ)るハタレ魔軍のイソラ道(みち;誰を神格化したか不明)が妖術で、野山を変化させて、叢雲(むらくも)を起こして、さらに幾つもの日の輪(わ)を顕(あら)わして、経津主(ふつぬし)を驚(おどろ)かせた。
立山連峰(たてやまれんぽう)のハタレ魔軍のイソラ道(みち;誰を神格化したか不明)は、出現して天照神(あまてるかみ;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)に報告して、経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)を富山県に派遣したのが仲哀(ちゅうあい)天皇時代で、天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)しか当てはまらず、時間的に経津主(ふつぬし)が天照神(あまてるかみ)に根国(ねのくに;北陸)平定を報告できず、あくまで神話である。
根国(ねのくに;北陸)に派遣した経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、東海平定に派遣した経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の実父で、父親の武虎別皇子(たけこわけのみこ)と息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)を入れ替えて、神格化したのが100%間違いない。
ハタレ魔軍のイソラ道(みち;誰を神格化したか不明)は、完全に記録にない敵将を神格化したため、人名や特徴などを特定できず、『ホツマツタエ』の「経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけ)を神格化)の根国(ねのくに;富山県)平定神話」から、少し予測できる程度の情報にすぎない。
『ホツマツタエ』8章の「経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけ)を神格化)の根国(ねのくに;富山県)平定神話」は、『古事記』の「大己貴神(おおなむちのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の根国下(ねのくにくだ)り神話」を完全解釈すると、須佐之男神(すさのおのかみ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が統治する地獄の根国(ねのくに;根之堅洲國(ねのかたすくに):長野県)と共通して、『ホツマツタエ』の根国(ねのくに)が北陸地方の富山県と長野県が合致して、日本神話の正しさを証明した。
「経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけ)を神格化)の根国(ねのくに;富山県に当たる)平定神話」は、日本武(やまとたけ)天皇元年11月4日(西暦251年12月上旬頃)におそらく武虎別皇子(たけこわけのみこ)が山城(やましろ;京都府南部)で、反乱(皇位継承権争い)を鎮圧(ちんあつ)して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年4月から5月頃(西暦252年6月から7月頃)に息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)と相津(あいづ;福島県会津(あいづ)地方)で出会って、根国(ねのくに;富山県)平定神話が西暦252年の間(あいだ)と考えられる。
日本武(やまとたけ)天皇元年11月4日(西暦251年12月上旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、京都府南部を離(はな)れて、すぐ後に北陸(中部地方の北部)平定の総大将として出陣して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日(西暦252年3月中旬頃)に息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)が勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)に侵攻して、後日に大毘古命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の親子が相津(あいづ;福島県会津(あいづ)地方)で出会ったと考えられる。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇27年2月13日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日;西暦252年3月中旬頃)は、で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)の男女が髪を総角(あげまき)にして、体に入(い)れ墨(ずみ)をして、荒々しく興奮(こうふん)していると述べて、討伐に乗り出して、2024年6月8日の朝に日付を求めた。
天児屋命(あまのこやねのみこと)の子孫の大鹿島(おおかしま;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を祖先化)は、武将たちに御饗(みあえ)を捧(ささ)げて、後に葦浦(あしうら;千葉県鴨川市江見吉浦)を越えて、勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)に入って、そこの仮宮で休息して、景行(けいこう)天皇27年2月13日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日;西暦252年3月中旬頃)に勿来(なこそ)入りして、日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)に含(ふく)む結論を出す。
日高見国(ひだかみのくに)は、よく「日の上の国(日の昇(のぼ)る国)」と解釈して、東北地方南部のどこかで、どの辺りの土地を指(さ)すか、研究し続けて諸説あって、結論が出てないが、宮城県石巻市の日高見(ひたかみ;ひだかみ)神社の存在と、『ホツマツタエ』の勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)を照合して、宮城県石巻市から福島県いわき市の付近と推定して、2026年2月8日の午後3時頃(3時から1時間半ほどして、時計確認した時間予測で、曖昧(あいまい)である)に特定した。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇41年10月(正しくは日本武(やまとたけ)天皇元年10月;西暦251年11月頃)は、相模(さがみ;神奈川県)を平定した武将たちが海路を船団で、上総(かずさ;千葉県中部)に渡って上陸して、『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇27年2月13日(正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日;西暦252年3月中旬頃)に勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来;なこそ)に上陸して、時期的な前後関係の予測で、日高見国(ひだかみのくに;東北地方南部のどこか)に勿来(なこそ;福島県いわき市勿来:なこそ)を含(ふく)むと考えられる。
『日本書紀』出雲の国譲(くにゆず)り神話の一書は、出雲の国譲(くにゆず)り神話の前に天神(あまつがみ;天照大神:あまてらすおおみかみ)が2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を派遣して、邪神や草木や石に至るまで皆を倒して、従わないのが悪神(あくしん)で、星神(ほしがみ)の天津甕星(あまつみかほし)で、別名を天香香背男(あめのかかせお)だけとなった。
2軍神(いくさがみ)は、倭文神(しどりのかみ)建葉槌命(たけはづちのみこと)を派遣して、星神の天津甕星(あまつみかほし)を倒して、その後に2軍神(いくさがみ)が天に上(あ)がられて、天津甕星(あまつみかほし)を征(せい)する斎主(いわい)をする主(あるじ;経津主神:ふつぬしのかみ)を斎大人(いわいのうし)と言って、今が東国(とうごく;千葉県香取(かとり)市)の香取(かとり)神宮に御出(おいで)になる。
出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王国の攻撃の前)は、2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を派遣して、関東地方の邪悪な者を倒して回って、天津甕星(あまつみかほし;別名を天香香背男(あめのかかせお):誰を神格化したか不明)だけが残った。
2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、随伴(ずいはん)した倭文神(しどりのかみ)建葉槌命(たけはづちのみこと;誰を神格化したか不明)を派遣して、天津甕星(あまつみかほし)を殺して、その後に2軍神が奈良県に帰還して、天津甕星(あまつみかほし)を征(せい)する斎主(いわい)をした経津主神(ふつぬしのかみ)を斎大人(いわいのうし)と言って、今が千葉県香取(かとり)市の香取(かとり)神宮に祭られる。
日本武(やまとたけ)天皇元年12月から仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月頃(西暦252年1月から2月頃)は、茨城県日立(ひたち)市の星神(ほしがみ)の天津甕星(あまつみかほし;別名を天香香背男(あめのかかせお)と言う)を討伐して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月(西暦252年3月頃)以降に塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を宮城県塩竈(しおがま)市に道案内したと考えられる。
茨城県日立(ひたち)市の大甕(おおがめ)神社は、天津甕星(あまつみかほし;別名を天香香背男(あめのかかせお)と言う)の荒魂(あらみたま;荒ぶる魂)が宿(やど)る宿魂石(しゅくこんせき)と言う岩があって、天津甕星(あまつみかほし)が日本神話で唯一の星の神様(星神;ほしがみ)である。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の別名の斎主神(いわいぬしのかみ)は、祭事をする神様と考えられて、祭祀氏族の忌部(いんべ)氏の祖先神である太玉命(ふとだまのみこと)と同一神で、物部(もののべ)氏と忌部(いんべ)氏が同族である。
倭文神(しどりのかみ)建葉槌命(たけはづちのみこと;織物の神で武神)は、別名を天羽雷命(あめのはいかずちのみこと)だから雷神で、物部(もののべ)氏の出身と考えられて、僕が倭文神(しどりのかみ)と建葉槌命(たけはづちのみこと)を同一神と考えるが、あくまで僕の私見で、詳細な調査・研究が必要である。
宮城県塩竈(しおがま)市の塩竈(しおがま)神社に祭る海神の塩土老翁(しおつちのおじ)は、塩竈(しおがま)神社に2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を道案内して、陸奥国(むつのくに;東北地方南部:現在の区分と違って、宮城県と福島県を指(さ)す)を平定した。
経津主神(ふつぬしのかみ)は、千葉県香取(かとり)市の香取(かとり)神宮に祭って、武甕槌神(たけみかづちのかみ)をと茨城県鹿嶋(かしま)市の鹿島(かしま)神宮に祭って、さらに2軍神(いくさがみ)を奈良市の春日大社(かすがたいしゃ)に祭って、塩土老翁(しおつちのおじ)が塩竈(しおがま)の地にとどまって、人々に塩作(しおづく)りを教(おし)えた。
塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、海神(物部(もののべ)氏を神格化)出身で、2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を道案内して、陸奥国(むつのくに;宮城県と福島県を指(さ)す)を平定した。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、千葉県香取(かとり)市の香取(かとり)神宮に祭って、武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)をと茨城県鹿嶋(かしま)市の鹿島(かしま)神宮に祭って、さらに2軍神(いくさがみ)を奈良市の春日大社(かすがたいしゃ)に祭って、塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が塩竈(しおがま)の地にとどまって、人々に塩作(しおづく)りを教(おし)えた。
2026年2月3日の午前4時15分頃から僕は、総合的な東日本平定神話の名称を名付けて、午前7時10分頃までに3神話を名付け終えて、東日本平定神話を合計3神話に分割して、「経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけ)を神格化)の根国(ねのくに;富山県)平定神話」、「茨城県日立(ひたち)市の天津甕星(あまつみかほし;天香香背男(あめのかかせお)とも言う)討伐神話」、「塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の宮城県塩竃(塩釜;しおがま)市の道案内神話」を正式名称にした。
宮城県塩竃(しおがま)市の市役所ホームページは、市役所の公文書に「塩竃」を使って、塩竃(しおがま)市の市民や他の官公庁が「塩釜」と表記した文書を「塩竃」と解釈して受理させて、1941年(昭和16年)から、塩竃(しおがま)市役所が以前の「鹽竈」や「塩竃」や「鹽釜」や「塩釜」などが混在したのを「塩竃」の表記に統一した。
鹽竃(しおがま)神社に由来する名称は、全国の鹽竈(鹽竃;塩竈:塩竃:塩釜:塩釡:しおがま)神社の総本社で、海水を煮(に)て、塩を作る(直煮製塩(じきにせいえん)の)「かまど(竈)」を「塩竈(しおがま)」と呼んで、元々の地名でなく、直煮製塩(じきにせいえん)の土地柄で、名付けた地名である。
「塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の宮城県塩竃(塩釜;しおがま)市の道案内神話」は、2軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を宮城県塩竃(塩釜;しおがま)市に道案内して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年7月頃から2年2月頃(西暦252年8月頃から253年3月頃)ぐらいの年月と考えられる。
合計4神話を名付けた僕は、『日本書紀』の出雲の国譲(くにゆず)り神話で、一書(ある説によると)の「茨城県日立(ひたち)市の天津甕星(あまつみかほし)討伐神話」の通称(つうしょう)を2025年以前に本章に記して、東日本の平定神話の「の」を抜いた東日本平定神話の通称(つうしょう)を2026年2月3日の一番最初に正式決定して、『ホツマツタエ』8章の「経津主(ふつぬし)の根国(ねのくに)平定神話」の通称(つうしょう)を朝の次に正式決定した。
宮城県塩竃(塩釜;しおがま)市の鹽竈(しおがま)神社の社伝は、2軍神(いくさがみ;経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の2神)を東北地方南部に導(みちび)いた「塩土老翁(しおつちのおじ)の宮城県塩竃(塩釜;しおがま)市の道案内神話」の通称(つうしょう)を2月3日の朝の次に正式決定して、同一神の「茨城県日立(ひたち)市の天香香背男(あめのかかせお)討伐神話」の通称(つうしょう)を午後23時32分頃(ノートパソコンの時計を確認済み)に正式決定した。
正式決定した合計4神話の通称(つうしょう;正式な名称でないが、特定の人や物事に対して、世間一般で広く使う呼び名)は、「東日本平定神話」と「経津主(ふつぬし)の根国(ねのくに)平定神話」と「茨城県日立(ひたち)市の天津甕星(あまつみかほし;天香香背男(あめのかかせお)とも言う)討伐神話」と「塩土老翁(しおつちのおじ)の宮城県塩竃(塩釜;しおがま)市の道案内神話」で、僕の新しい概念(がいねん;形式論理学で、事物の本質をとらえた考え方の形式)の誕生日でもあって、通称(つうしょう)命名の記述修正を2026年2月3日の午前2時3分に始めて、午前2時38分に終了した。
2026年2月3日中に正式決定した合計4神話の通称は、神話名の造語(ぞうご;新しい言葉を作ること)を僕が名付けた瞬間の集合日で、他にも合計4神話をまとめた東日本平定神話と、大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけ)を祖先化)や武渟川別(たけぬなかわわけ)の親子の東日本(北陸・東海)平定伝説と、日本武尊(やまとたけのみこと)の東日本平定伝説の三重構造に気付いて、僕の苦手な数学の逆算(逆に計算すること)と得意な歴史研究の逆算の対比も特定して、通称の名付けと三重構造の気付きと逆算特定の3つの関連性が重要である。
東日本平定神話と大彦命(おおびこのみこと)や武渟川別(たけぬなかわわけ)の親子の東日本(北陸・東海)平定伝説と日本武尊(やまとたけのみこと)の東日本平定伝説の三重構造は、超天才の僕が当然(当たり前)に理解して、凡人(僕以外の人間)も理解したと勘違いして、凡人の考え方を理解できない超天才の悲しい現実で、凡人レベルの考え方に合わせた基礎理論(基本的な僕の考え方)を構築して、どのように僕が超知識や超頭脳の大偉業を生み出したか、簡単に語(かた)られない史実・真実・事実の裏側(うらがわ)である。
総合的に東日本平定神話を再定義した僕は、僕の『7冊目の本』を参照する『ホツマツタエ』8章の『ホツマツタエ』8章の「経津主(ふつぬし;武虎別皇子(たけこわけ)を神格化)の根国(ねのくに;富山県)平定神話」、2軍神(いくさがみ)の天津甕星(あまつみかほし;天香香背男(あめのかかせお)討伐神話と塩土老翁(しおつちのおじ)の宮城県塩竈(しおがま)市の道案内神話の2神話をまとめて、合計4神話を統合して、結果的に僕本人を総括(そうかつ;物事の全体をまとめて、評価や反省すること)して、僕自身の認識力や判断力などの甘(あま)さを把握(はあく)した。
後日に詳細なネット検索をして僕は、さらに東日本平定神話を新しく分類して、新しく知る神話の名称を僕本人が直接に名付ける可能性を認識して、自分自身の絶対的な自信やうぬぼれを自覚して、無知(むち)の知(ち;知らないことを知ること)が知的な好奇心や探求心で、自分が知らない謎(なぞ)の情報を知った後、すぐにその情報を徹底的・根本的に自己分析して、手書きの論文作成や日本語入力ソフトWORDのパソコン入力などの記録を残して、未来に残す教本の基礎理論(基本となる僕の考え方)を簡単に作成する僕が規格外の超天才である。
剣神の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、雷神の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と共に双璧(そうへき)の軍神(戦神;いくさがみ)で、僕が武甕槌神(たけみかづちのかみ)よりも、経津主神(ふつぬしのかみ)の方が強大で、上位の軍神(戦神;いくさがみ)と認識して、その考え方の理由を『伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話』の章に詳述した。
総合的な東日本平定神話は、2026年2月3日の午前4時15分頃から、午前7時10分頃までに超速で、基礎理論を修正・発展(僕本人の考え方の一大理論を超進化スピードで、理論的な修正・発展させた事実)させて、その後も内容を追加して、僕本人も驚愕する凄(すさ)まじさである。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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