神魂(かもす)神社などの元宮(もとみや)

元宮(もとみや)は、奥宮(おくみや)や奥社(おくしゃ)や奥(おく)の院(いん)とも呼んで、神道において神社の中のある社殿に対して、他の社殿の関係を現わす名称の一つで、またはその関係にある社殿そのものを言って、昔の元々の神社を意味する場合もある。

出雲大社の元宮(もとみや;元々の神社)の三屋(みとや)神社は、島根県雲南市(うんなんし)三刀屋町(みとやちょう)にあって、神亀(じんき)3年(西暦726年)に神社名を御門屋(みとや)から三屋(みとや)に変更して、出雲大社と同じ神紋(しんもん)を持って、大国主神(おおくにぬしのかみ)がここに宮居(みやい;神様が鎮座する神社)を置いて、国土経営して、大国主神(おおくにぬしのかみ)の御門(みかど;社殿)があって、御門屋(みとや)と呼ぶと伝える。
島根県雲南市(うんなんし)三刀屋町(みとやちょう)の三屋(みとや)神社は、出雲国(いずもこく;島根県東部)の中で、大国主神(おおくにぬしのかみ)の神地(しんち;神様の鎮座する土地)と神戸(かんべ;神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸)が『出雲国風土記』ができた当時に置かれた場所が他に1ヶ所もなくて、神様の御門(みかど;社殿)と神戸(かんべ)を神社名とした神社が全国に一社もない。
三屋(みとや)神社は、歴史書に出雲大社の元宮(もとみや)と記して、出雲大社が昔に別の土地にあった伝承が存在して、三屋(みとや)神社に古代信仰などの考古学的証拠がなくて、物的証拠が弱くて頼(たよ)りない。

出雲大社の元宮(もとみや;元々の神社)の出雲大神宮は、京都府亀岡市にある丹波国(たんばこく;京都府中部)一宮(いちのみや)で、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と妻の三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)を祭って、元出雲と呼ばれる。
出雲大神宮の本殿の後ろにある御神体山の御蔭山(みかげやま)は、古代信仰の磐座(いわくら;神様が宿(やど)る石)があって、1500年以上前の日本神話ができた時代より昔の可能性があって、出雲大神宮が祭られた時期の参考になるが、昔の出雲大社の可能性が低い。京都府亀岡市の出雲大神宮は、和銅(わどう)2年10月21日(西暦709年11月下旬頃)に初めて社殿ができて、島根県出雲市の出雲大社から勧請(かんじょう;本社の祭神を他所で祭るため、その神霊(しんれい)を分霊(ぶんれい)した物)したか、出雲大社に勧請(かんじょう)したと伝承するが、出雲大社から勧請(かんじょう)した可能性が高い。
京都市から京都府亀岡市の保津峡(ほづきょう)と保津川(ほづがわ)は、『ホツマツタエ』のミホツヒメ(誰を神格化したか不明)の神名から名付けて、3代目の景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の高田媛
(たかだひめ)の長男である武虎別皇子(たけこわけのみこ)の娘を神格化して、名前が分からない物部(もののべ)氏の女性である。2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)は、天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の娘で、宗像(むなかた)三神の瀛津嶋姫(おきつしまひめ;誰を神格化したか不明)と結婚して、事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)が生まれて、太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の妹の三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)と結婚した。
『ホツマツタエ』の初代・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、息子の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)が別名を事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)で、超天才の僕が系図を完全に解明した。
7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子供は、神功(じんぐう)皇后と弟(同母か異母か不明)の武渟川別(たけぬなかわわけ)と実妹の虚空津比売命(そらつひめのみこと)で、虚空津比売命(そらつひめのみこと)を神格化したのが三穂津姫(みほつひめ;誰を神格化したか不明)か分からない。

出雲大社の元宮(もとみや;元々の神社)は、島根県雲南(うんなん)市の三屋(みとや)神社と京都府亀岡市の出雲大神宮の2つで、神魂(かもす)神社がワザと元宮(もとみや;元々の神社)の伝承を残さず、出雲大社の元宮(もとみや;元々の神社)2つの伝承から考えて、古代の出雲大社が別の場所に存在した仮説(かせつ;仮(かり)の考え方)が成立する。
北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上(北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道(レイライン;太陽の道)」は、その直線上に神魂(かもす)神社があって、天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼ぶ出雲大社と共に神魂(かもす)神社が太陽信仰の超重要な神社でもあって、富士山と出雲大社がレイライン(太陽の道)上の測量で、出雲大社の場所を固定して創建して、神魂(かもす)神社の位置も固定したと考えられる。
日本のレイライン(太陽の道)は、北緯35度22分の富士山から出雲大社を地図上で、日本列島をまっすぐ直線に結(むす)んだ春分と秋分の日の「御来光(ごらいこう)の道」が有名で、他にも三重県の伊勢神宮のレイライン(太陽の道)や伊雑宮(いざわのみや)のレイライン(太陽の道)、奈良県桜井市の三輪山(みわやま)のレイライン(太陽の道)、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社のレイライン(太陽の道)など、他にも愛知県や岐阜県など日本各地にレイライン(太陽の道)があって、彦坐王(ひこいますのみこ)を最初の先祖とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏が統治する地域も多い。
考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)から見た島根県松江市は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の本拠地で、左隣(ひだりどなり)の島根県出雲市が千家(せんげ)氏の祖先神の出雲大社を祭るが、島根県松江市の熊野大社が出雲大社よりも、神社の格式が上位で、出雲国(いずものくに;島根県東部)で、一番上位の神社で、同じく島根県松江市の神魂(かもす)神社が古代の出雲大社と考えられて、千家(せんげ)氏の先祖が出雲王国(物部(もののべ)氏)である。

島根県松江市大庭町(おおばちょう)の神魂(かもす)神社は、最高権力者の藤原不比等(ふじわらのふひと)の時代に出雲国(いずもこく;島根県東部)意宇郡(おうぐん)大庭(おおば)から、出雲国(いずもこく)杵築郡(きづきぐん;島根県出雲市)の出雲大社に勧請(かんじょう;本社の祭神を他所で祭るため、その神霊(しんれい)を分霊(ぶんれい)した物)して、北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上(北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道」のレイライン(太陽の道)上に計算して創建したと考えられる。
富士山と出雲大社を直線で結(むす)ぶ北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道」上にある神魂(かもす)神社は、日本武(やまとたけ)天皇元年2月頃(西暦251年3月頃)に東海平定で、神奈川県を平定して、富士山を古代天皇家の統治下に置いて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、富士山と出雲大社を直線で結(むす)ぶ「御来光(ごらいこう)の道」を測量して、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ)を祭ったと考えられる。
富士山を古代天皇家の統治下に置いた日本武(やまとたけ)天皇元年(西暦251年)から72年後は、出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊した仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)を出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化して、出雲の国譲(くにゆず)り神話から63年後の摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社を創建(そうけん)して、正しい計算が成立した。

神魂(かもす)神社は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が元々の本拠地とした島根県意宇郡(おうぐん;松江市と安来市(やすぎし)の一部)にあって、日本最古の神殿様式の大社造(たいしゃづくり)で、出雲大社本殿も大社造(たいしゃづくり)だから、昔に千家(せんげ)氏が奉仕(ほうし;報酬(ほうしゅう)や見返りを求めずに、国家・社会や他人のために尽(つ)くすこと)した神社で、昔の出雲大社と考えられて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の多くの証拠が挙(あ)げられて、正しい分析・研究が必要である。
千家(せんげ)氏の先祖の出雲広嶋(いずものひろしま)は、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』を編纂(へんさん)した出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の統治者)の人物で、出雲国造(いずもくにみやつこ)が昔に神魂(かもす)神社に奉仕したが、それ以降の出雲国造(いずもくにみやつこ)が現在の出雲大社で奉仕したと伝えて、古代の出雲国造(いずもくにみやつこ)が出雲王家(物部(もののべ)氏)で、後に出雲国造(いずもくにみやつこ)が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏を名乗った。
『出雲国造世系譜(いずもくにみやつこせけいふ)』は、出雲果安(いずものはたやす)が(島根県松江市)大庭(おおば)から、霊亀(れいき)2年2月丁巳(ひのとみ)の日(西暦716年3月頃)に(島根県出雲市大社町)杵築(きづき)に移住したと記して、千家(せんげ)氏の移住を記録した年月日で、古代の出雲大社の神魂(かもす)神社から、出雲大社に宮司(ぐうじ)の出雲果安(いずものはたやす)が移住した日付と考えられる。
出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊した仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月頃)から63年後の摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)は、神魂(かもす)神社に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と飯入根(いいいりね)を神格化)を祭(まつ)って、斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)に神魂(かもす)神社から遷宮(せんぐう)して、57年後の霊亀(れいき)2年2月丁巳(ひのとみ)の日(西暦716年3月頃)に出雲果安(いずものはたやす)が出雲大社に引っ越して、神魂(かもす)神社が古代の出雲大社と考えられる。
西暦713年に献上された『古事記』は、霊亀(れいき)2年(西暦716年)に出雲大社が島根県出雲市にあると確信して、それ以前の出雲大社の現在地に関係した記録がなくて、歴史学会(歴史書解釈)が「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」に神魂(かもす)神社を記さないとするが、『日本書紀』斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)の「厳(いつき)の神宮(かみのみや;一般的に熊野(くまの)大社と解釈する)」を超天才の僕が神魂(かもす)神社と訂正(ていせい)して、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に創建(そうけん)した古代の出雲大社と解釈した。
島根県松江市大庭町(おおばちょう)の「厳(いつき)の神宮(かみのみや;神魂(かもす)神社)の修造(しゅうぞう;新しい神社を建造すること)」は、西暦715年頃から霊亀(れいき)2年2月(西暦716年3月頃)までに終了して、島根県出雲市大社町杵築東(きづきひがし)の出雲大社に遷宮(せんぐう;神社の本殿を建て直す時に御神体を異なる本殿に移動すること)して、霊亀(れいき)2年2月丁巳(ひのとみ)の日(西暦716年3月頃)に出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖である出雲果安(いずものはたやす)が神魂(かもす)神社から、出雲大社に引っ越したと考えられる。
つまり今年2026年は、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に創建(そうけん)した古代の出雲大社の神魂(かもす)神社から1703年目で、霊亀(れいき)2年2月丁巳(ひのとみ)の日(西暦716年3月頃)に出雲大社宮司の出雲果安(いずものはたやす)が神魂(かもす)神社から、引っ越して出雲大社を創建(そうけん)して1310年目と特定して、今年2026年1月29日の午後8時頃に古代の出雲大社の神魂(かもす)神社を特定して、超天才の僕の凄(すさ)まじすぎる大偉業である。

斉明(さいめい)天皇5年(西暦659年)に神魂(かもす)神社は、57年間ほどの長年をかけて、霊亀(れいき)2年2月(西暦716年3月頃)までに出雲大社に遷宮(せんぐう)して、新築まで57年間ほどかかった理由が出雲大社の境内(けいだい)で、2000年と翌年の調査で出土した宇豆柱(うずばしら)が鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の支柱の可能性が高くて、出雲大社本殿(ほんでん)が神代(かみよ;神様の時代)に32丈(96メートル)で、平安時代に16丈(48メートル)で、現在が8丈(24メートル)の高さで、高さ48メートルが本当と考えられる。
出雲大社宮司家に伝わる出雲大社本殿の図面の『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』は、建築会社の大林組が調査して、48メートルの本殿(神様が宿(やど)る御神体を安置する神社で、最重要の木造建物(たてもの)が建築できたと証明して、平安時代中期に書いた子供用の教科書の『口遊(くちずさみ)』に「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と記して、出雲大社本殿の次に東大寺(とうだいじ)大仏殿(だいぶつでん)で、次に平安京(へいあんきょう)大極殿(たいごくでん)が低くて、平安時代中期に最高の木造高層建築で、出雲大社本殿の新築に56年から57年かかった理由である。
初(はじ)めて新築(しんちく)した神魂(かもす)神社は、図面などのない手探(てさぐ)りで、63年間かけて神社を作って、神魂(かもす)神社から移設した出雲大社が出雲大社本殿(ほんでん)の図面の『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』や、神魂(かもす)神社本殿(ほんでん)などを参考にしたため、工期が56年から57年に短縮(たんしゅく)されて、出雲大社本殿(ほんでん)だけでなく、出雲大社の神社全部が完成したと考えられる。

神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、別名の漢字が神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)と神産巣日神(かみむすびのかみ)で、景行(けいこう)天皇と神魂(かもす)神社の関係が邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王家(物部(もののべ)氏)の関係を指摘して、神魂(かもす)神社と神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の漢字の共通性を明確に証明できない。
初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と子孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、古代の神魂(かもす)神社本殿(ほんでん)で、合祀(ごうし;ある神社の神様を別の神社で、合(あ)わせて祭(まつ)ること)して、後世(現代)の神魂(かもす)神社本殿(ほんでん)が国生みの女神の伊弉冊大神(いざなみのおおかみ;日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)を祭(まつ)って、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫娘で、飯入根(いいいりね)の曾祖母(そうそぼ)が日葉酢媛(ひばすひめ)と証明した。

『ホツマツタエ』の僕の現代日本語訳は、「積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし)は、恵美寿神(えみすかみ;初代・大物主神(おおものぬしのかみ)と同一神)の祭主(まつりぬし)にして、孫の天立櫛根(あだつくしね)を三輪(みわ)の県主(あがたぬし)にして、社(やしろ)を造(つく)らせて、神武(じんむ)統一2年メ月の20日(紀元前661年11月頃)に大三輪(おおみわ)の神奈備山(かんなびやま)の大祭を行(おこな)なって、祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を祭(まつ)った」と訳(やく)す。

積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)は、男性の古代太陽神の恵美寿神(えみすかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の祭主(まつりぬし)にして、孫の天立櫛根(あだつくしね;宇迦都久怒(うかずくぬ)の孫)を三輪(みわ)の県主(あがたぬし;三輪(みわ)氏)にして、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ)を祭(まつ)った。
初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と子孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま;大三輪(おおみわ)の神奈備山(かんなびやま)のこと)に祭る7人の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の歴代出雲国王を神格化)と同一神で、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社に祭る倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)とも同一神で、『ホツマツタエ』だけが神魂(かもす)神社の創建(そうけん)を記して、「記紀」が記さないと考えられる。


『ホツマツタエ』神武(じんむ)統一2年メ月20日(紀元前661年11月頃)は、年代が間違いで、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、崇神(すじん)統一2年10月20日(西暦83年11月頃)に年代修正して、仁徳(にんとく)天皇元年が西暦334年で、崇神(すじん)統一2年(西暦83年)に干支(えと)の年60年周期の240年を加算して、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に年代修正して、二重の年代操作の偽装工作をしたと考えられる。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は、先祖の狭穂彦王(さほひこのみこ)と子孫の宇迦都久怒(うかずくぬ)と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化して、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)の積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と、摂政(せっしょう)60年(西暦320年)の事代主神(ことしろぬしのかみ;葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を神格化)の3人と証明できる。
初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の恵美寿神(えみすかみ)は、七福神の恵比寿(恵美寿;えびす)と同一神で、美(うつく)しい幸福な笑顔(えがお)の神様の意味で、大物主神(おおものぬしのかみ)が大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)の神様で、大国主神(おおものぬしのかみ)が大きな国の主(あるじ)の神様で、同一神の大物主神(おおものぬしのかみ)と大国主神(おおものぬしのかみ)が地上の世界の葦原中国(あしはらなかつくに)を作って、大物主神(おおものぬしのかみ;大国主神(おおものぬしのかみ)と同一神;物部(もののべ)氏の出雲国王を神格化)が地上に君臨(くんりん)した。
宇迦都久怒(ひこいますのみこ)の孫の天立櫛根(あだつくしね)は、別の物部(もののべ)氏の血筋で、『古事記』で大物主大神(おおものぬしのおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の曾孫の建甕槌命(たけみかづちのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が息子を2代目・意富多多泥古(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)として、天立櫛根(あだつくしね)と2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が同一人物で、大神(おおみわ)神社宮司家である三輪(みわ)の県主(あがたぬし;三輪(みわ)氏)の先祖と考えられる。
神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に祭(まつ)る初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と子孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、奈良県桜井市の御神体山の三輪山に祭る7人の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の歴代出雲国王を神格化)と同一神で、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社に祭る倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)とも同一神で、古代太陽神と関係が深い。
7人の大物主神(おおものぬしのかみ;7人の歴代出雲国王を神格化)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、男性の古代太陽神で、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と子孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が太陽神の要素がなくて、大物主神(おおものぬしのかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と大国主神(おおくにぬしのか)の3神が出雲王家(物部(もののべ)氏)の子孫で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の先祖でもある。

『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代の仲哀(ちゅうあい)天皇9年3月8日に登場する天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろのかみ;事代主神(ことしろぬしのかみ)と同一神)は、物部(もののべ)氏の宇迦都久怒(うかずくぬ)と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)のどちらを神格化したとも解釈で来て、摂政(せっしょう)60年(西暦320年)の三韓征伐(さんかんせいばつ)と摂政(せっしょう)62年(西暦322年)の新羅国(しらぎのくに)討伐の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が正しい解釈である。
彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の息子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)は、紀直(きのあたい)の先祖である菟道彦(うじひこ;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の娘の倭影媛(やまとかげひめ;山下影姫:やましたかげひめ);布忍姫(ぬのおしひめ)を祖先化)と結婚して、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月頃)に初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んで、同母(どうぼ)兄弟が宇迦都久怒(うかずくぬ)で、摂政(せっしょう)60年(西暦320年)に85才頃である。
宇迦都久怒(うかずくぬ)の年齢は、『日本書紀』神武(じんむ)統一2年8月16日(紀元前661年9月頃)の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;磐之媛命(いわのひめのみこと)を祖先化)を崇神(すじん)統一2年8月16日(西暦83年9月頃)に年代修正して、仁徳(にんとく)天皇2年6月(西暦335年7月頃)に磐之媛命(いわのひめのみこと)が死去して、西暦83年に240年を加算でなく、250年を加算して、仁徳(にんとく)東征5年8月16日(西暦333年9月頃)に年代修正したのが間違いと考えられる。
つまり仁徳(にんとく)東征5年10月20日(西暦333年11月頃)に宇迦都久怒(うかずくぬ)が98才頃に神魂(かもす)神社の裏山(うらやま)を祭ったのは、年代的に考えて間違いで、10年間を減算した摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)の88才頃が正しいと考えられる。

摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)は、初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭(まつ)って、神魂(かもす)神社の裏山(うらやま)に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ)の御神体があって、神魂(かもす)神社から出雲大社の裏山(うらやま)の八雲山(やくもやま)に御神体を遷(うつ)したと考えられる。
出雲大社の御神体は、出雲大社本殿(ほんでん)と裏山(うらやま)の八雲山(やくもやま)のどちらかと考えるが、『ホツマツタエ』の記述を完全解釈した僕の自論なら、神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)と、出雲大社本殿(ほんでん)の裏山(うらやま)の八雲山(やくもやま)と考えて、両方の裏山(うらやま)こそが御神体と考えられる。

神魂(かもす)神社(出雲大社)の御神体は、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が出雲王国の建国(物部(もののべ)氏の誕生)を報告して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊で、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が暗殺されて、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が戦死して、2人の大国主神(おおくにぬしのかみ)の御神体と考えられる。
摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)は、初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭(まつ)って、神魂(かもす)神社の裏山(うらやま)に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ)の御神体があって、2人の大国主神(おおくにぬしのかみ)が神格化された時期の御神体と考えられて、当てはまる時期を計算したが、あくまで僕の自論である。

『ホツマツタエ』神武(じんむ)統一2年メ月20日(紀元前661年11月頃)は、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に年代修正して、大三輪(おおみわ)の神奈備山(かんなびやま;奈良県桜井市の御神体山の三輪山:みわやま)を島根県松江市大庭町(おおばちょう)の神魂(かもす)神社(出雲大社)の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に修正した。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)に三諸山(みもろやま;三輪山(みわやま)のこと)の神々を斎(いつ)き祭って、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化した事実があっても、10月20日と10月1日で、同月でも日付が違って、三輪山(みわやま)の祭祀(さいし)が2度も登場すると考えられず、どちらかが解釈間違いと考えられる。
この結論は、崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月頃)に三輪山(みわやま)の神々を祭祀(さいし)して、摂政(せっしょう)63年10月20日(西暦323年11月頃)に神魂(かもす)神社(出雲大社)の裏山(うらやま;恐(おそ)れ多くて、山名(さんめい)が無いと考えられる。)に初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭祀(さいし)したと考えられて、超天才の僕の能力が凄(すさ)まじすぎる証明である。

僕は2026年7月16日(木)の午前5時20分に本章を修正し終えて、島根県松江市大庭町(おおばちょう)の神魂(かもす)神社が古代の出雲大社と確信して、徹底的・根本的に理論付けて証明した。

<参考文献>
『出雲大社と千家氏の秘密』
著者・中見利夫 発行・株式会社宝島社
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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