古代日本史(古代天皇家の歴史)の史実・真実・事実

僕の歴史研究の基本的な成長記録
(『僕の閃(ひらめ)きの超進化スピード』から抜き出して、少し修正した。)
僕が最初に古代に興味を持ったのは、一成(いっせい)保育園の年長組で、恐竜のポケット図鑑をもらった時が古代への憧(あこが)れになって、修斉(しゅうせい)小学校中学年の理科の授業で、地学系の天文学や古生物学などに興味を持って、後に科学的な証明が大切と気付いて、修斉小学校高学年で、歴史の授業から、古代日本史(古代天皇家の歴史)に興味を持って、縄文時代から古墳時代や邪馬台国(やまたいこく)論争が特に好きで、考古学(遺跡・遺物)を強く意識して、歴史学(歴史書解釈)をあまり理解せず、現在の僕の歴史研究で、一番最初の基礎部分ができた。
修斉(しゅうせい)小学校高学年か、成和(せいわ)中学校で僕は、「矛盾(むじゅん;どんな盾(たて)も貫(つらぬ)く最強の矛(ほこ)と、どんな矛も防御する最強の盾がぶつかると、お互(たが)いが潰(つぶ)れて、2つの物事が食い違って、辻褄(つじつま)が合わない理論的に成立しない考え方)」を勉強して、理論的な考え方が成立するか、疑問視する考え方を超重視して、現在の僕の基礎理論ができた。
超古代文明の本『神々の指紋(上)(下)』の発売日は、1996年(平成8年)2月1日で、成和(せいわ)中学校を卒業した1996年3月までに買ったはずで、僕が超常的(非常識的)な分野…超古代文明やUFOや未確認生物や幽霊などに興味を持って、後に歴史研究を始めて、古代信仰(古神道)の河川や岩石や山などを祭ること、漢字以前の時代の古代文字とされる神代(しんだい)文字などを理解する「きっかけ」になって、僕の歴史研究の超重要な分岐点である。
大江(おおえ)高校2年生の修学旅行3日目の1997年11月8日は、長崎市の自由行動の時間に一緒に暮らす祖父の死に目に会えず、虫の知らせか落ち着かなくて、祖父が亡くなった可能性に気付かないで、その後に家族にも言わずに塞(ふさ)ぎ込んで、命・魂・精神の分野を考えて、神道やキリスト教などの宗教観の理解、後に戦争・平和の分野も追加して、第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本人の償(つぐな)いなど、大きく考える下地になって、人間的に大きく成長したが、自殺願望を生み出す「きっかけ」にもなって、神道の死生観や基礎概念などの理解に超重要だった。

おそらく2002年10月下旬頃(おそらく正しい僕の記憶)に僕は、TSUTAYA AVIX福知山店で、参考文献『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』(著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社)と『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』(著者・次田真幸 発行・株式会社講談社)を買って、数日間で「記紀」の現代語訳本を流し読みして、『日本書紀』の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話と『古事記』の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が合致すると気付いた。
黄泉国下(よみのくにくだ)り神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、黄泉平坂(よもつひらさか)を登り逃げる所と、狭穂姫(さほひめ)が誉津別命(ほむつわけのみこと)を兵士に渡して、稲(いね)の城(しろ)の稲城(いなき)に入る所が合致すると気付いて、史実(歴史上の事実)を神話化したのが日本神話の可能性に気付いて、日本神話と古代天皇家の歴史の面白さが歴史研究に打ち込む「きっかけ」で、神話化と神格化の特定が現在の僕の基礎理論(僕の基本的な考え方)が成立した瞬間で、僕の神話化と神格化の基礎理論ができた。
2003年3月頃に僕は、『日本書紀』の神名と人名の末名の「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違いを特定して、神名の「尊(みこと)」が歴代の天皇皇后と重要人物を神格化して、人名の「尊(みこと)」が歴代天皇と国政執行した人物だけで、「命(みこと)」が一般人クラスの神様と人物に記して、景行(けいこう)天皇の息子の成務(せいむ)天皇の稚足彦尊(わかたりひこのみこと)と日本武尊(やまとたけのみこと)を同一人物と疑(うたが)って、僕の直感が正しいと証明して、僕の「尊」と「命」の書き違いの基礎理論ができた。
2003年4月頃に僕は、欠史(けっし)八代の後半4世代が祖先化されたと特定して、孝安(こうあん)天皇から開化(かいか)天皇の4世代が崇神(すじん)天皇から日本武尊(やまとたけのみこと)の4世代を祖先化して、実在した4世代を先祖の系図に組み込んで、繋(つな)がらない先祖と子孫の系図をワザと繋(つな)いで、実在しない作られた系図が生まれたと求めて、祖先化と子孫化の方法が判明して、僕の祖先化の基礎理論ができた。
2003年8月頃に僕は、『日本書紀』の干支年(かんしねん)を即位年干支(そくいねんかんし)と名付けて、神格化や祖先化などと対比して、西暦84年から329年までを確定して、後に即位年干支法(そくいねんかんしほう)と改名して、大和時代を再定義して、日本の建国年(天皇家誕生)から神功皇后の死去年までを大和時代と呼ぶことにして、仁徳(にんとく)天皇時代から武烈(ぶれつ)天皇時代の年号を2023年5月5月25日の午後5時頃に特定して、干支(えと)の年で西暦年を特定する僕の基礎理論になって、10ヶ月ほどで僕の歴史研究の基礎理論(基本的な僕の考え方)4つができた。
僕の歴史研究の成功理由は、歴史研究の基礎理論4つ(神話化や神格化・祖先化・子孫化や『日本書記』の神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違いや即位年干支法;そくいねんかんしほう)の構築と、日本神話(史実(歴史上の事実)の神話化)の大きな輪郭(りんかく)を把握したことなど、歴史研究を開始して2年以内に圧倒的な超成長・超発展をして、誰の目から見ても、明(あき)らかな超次元の奇跡の神技(かみわざ)を成立させた。

2026年2月18日の午前7時42分頃に台所で僕は、自分の超感性が生まれた理由が人生経験6つと歴史研究の基礎理論(基本的な僕の考え方)4つの合計10個と気付いて、すぐ後に「歴史研究の10大要素(10大要点)」と名付けて、人生経験6つが保育園年長組から高校2年生(恐竜や地学(天文学や地質学など)や考古学や矛盾(むじゅん)や超古代文明や祖父の死に目に会えなかったこと)までで、歴史研究の基礎理論4つが神話化や神格化・祖先化・子孫化や『日本書記』の神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違いや即位年干支法(そくいねんかんしほう)が全部である。
僕の総合的な超能力(霊感や瞬間移動などでなく、僕本人の考え方や認識力などを指す)の多くは、自分で知識や経験や努力などを頑張り続けて、無意識の考え方を意識的にして、必死に体得・蓄積・改良した結果で、何も知らない馬鹿が知らない異次元の超大偉業で、「歴史研究の10大要素(10大要点)」や、僕の総合的な超能力が生まれた理由を凡人(僕以外の全(すべ)ての人間)も、マネして超越できる可能性を示(しめ)したが、幾ら努力しても、超越した僕レベルになれなくて、これが僕の伝説の始(はじ)まりである。

最古の日本神話
出雲(いずも;島根県東部)王国(物部(もののべ)氏)の祖先神である饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内(かわち)平定神話)は、饒速日尊(彦坐王)が河内(大阪府東部)を平定して、神武(じんむ)天皇(彦坐王の実弟の崇神(すじん)天皇を祖先化)より先に大和(やまと;奈良県)に入って、敵対勢力を討伐や懐柔(かいじゅう)した総大将で、奈良県で饒速日尊(彦坐王)が神武天皇(崇神天皇)より先に即位した神話が正しい証拠で、僕が歴史研究を開始して1年半ほどで、この史実・真実・事実を特定した。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の大和(やまと;奈良県)の即位神話は、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月頃)に崇神天皇が初代天皇に即位(そくい)して、本当の日本国の建国(天皇家誕生)で、崇神天皇の実兄の彦坐王が天皇の次位(じい;次(つぎ)の位;くらい)の左大臣(さだいじん)になって、『ホツマツタエ』で剣臣(つるぎとみ;右大臣)の初代・大物主神(おおものぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王を神格化)の神話化・神格化を証明して、左大臣の次の位が右大臣(うだいじん)で、誰も僕を騙(だま)せない。
物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が奈良県で即位(そくい)した神話は、実弟の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)が奈良県で即位した事実より先で、総大将の彦坐王が奈良県の敵対勢力を討伐して、その後で崇神天皇が奈良県で即位(そくい)した事実を神話化した証拠で、日本神話の本質を全(すべ)て知り尽(つ)くした僕を騙(だま)して、隠(かく)し続けられるはずがない。
日本神話は、100%実在した物と人物を神話化と神格化して、史実・真実・事実を世界で、ただ一人の証明をした超天才の僕だけが「神(神様)に最(もっと)も近い人間」として、日本神話の神々の領域…神域に踏(ふ)み込んだ神話学を体現して、日本中や世界中の国々と人々に正しいことを伝(つた)えて、日本神話と邪馬台国(やまたいこく)論争と倭(わ)の五王の本当の姿(すがた)を教(おし)えて、教(おそ)わらせる人類史上唯一の教師になった。

日本建国神話の真実
神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話より前に塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の即位(そくい)より前に奈良県で、饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰を神格化)が即位して、神武天皇(仁徳天皇)が奈良県に行って、即位すべきだと進言して、宮崎県から軍船を率(ひき)いて、神武天皇(仁徳天皇)が東へ討伐に向かったため、神武東征神話と呼ばれて、僕がこれを間違いなく、日本神話に加(くわ)える。
塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の会話に登場した饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰を神格化)は、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)神話で、登場した饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰の神位(しんい;様様の位:くらい)を神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の皇位(こうい;天皇の位)に変換して、饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内平定神話)と合致しない。
日本国の建国(天皇家誕生)以前である饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内平定神話)は、出雲(いずも;島根県東部)王国(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日尊(彦坐王)が奈良県の敵対勢力を討伐や懐柔(かいじゅう)した総大将で、僕がこれを神武(じんむ)統一(崇神(すじん)統一)神話と名付けて、神武統一(崇神統一)1年2月20日から3年1月12日(西暦82年3月頃)までである。
僕が名付けた神武即位(じんむそくい;崇神即位:すじんそくい)神話は、神武天皇元年1月1日が崇神天皇元年1月13日(西暦84年2月頃)こそ正しくて、本当の日本国の建国(天皇家誕生)で、崇神天皇の子孫である仁徳(にんとく)天皇の神武即位(仁徳即位;にんとくそくい)神話が神武天皇元年1月1日でなく、仁徳天皇元年1月3日(西暦334年2月頃)で、世界中で僕しか特定できなかった。
神武東征(じんむとうせい;仁徳東征:にんとくとうせい)神話の次(つぎ)は、神武統一(崇神(すじん)統一)神話で、次の神武即位神話が崇神即位神話と仁徳即位神話で、実在した初代天皇の崇神天皇と子孫の仁徳天皇が重複して、ごちゃまぜになって混乱した結果、専門家(考古学会と歴史学会)を含(ふく)めた凡人(僕以外の人間)が100%理解できない日本神話が完成して、全(すべ)てを特定した僕の超頭脳や超知識が凄(すさ)まじすぎて、想像力が及(およ)ばない凡人がどれほどの大偉業か、全(まった)く理解できないだろう。

塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の会話に登場した饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰を神格化)は、次(つぎ)に別人で先祖である饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内(かわち)平定神話)に入れ替わって、次(つぎ)に饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王を神格化)が天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)から、授(さず)かった十種(とくさ)の神宝(かんだから)に入れ替わる。
次(つぎ)の神武東征(じんむとうせい;仁徳東征:にんとくとうせい)神話から神武即位(じんむそくい;崇神即位:すじんそくい)神話に登場した饒速日尊(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の神位(しんい;様様の位:くらい)は、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に皇位(こうい;天皇の位)を譲(ゆず)って、崇神(すじん)天皇の子孫が仁徳天皇で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫が初代・武内宿禰で、入れ替わりの順番を正しく把握する必要がある。
日本建国神話の真実は、世界中でただ一人の僕だけが特定した奇跡の神技(かみわざ)で、24年近い歴史研究の一大作業の超理論を作成した大偉業の年表である『僕の閃(ひらめ)きの超進化スピード』を見て、その困難さと苦(くる)しさなどを少しでも理解して、様々な葛藤(かっとう)や思いを抱(かか)えて、孤独に戦った人類史上唯一の戦士が存在した歴史を忘(わす)れないで、後世に語(かた)り継いでほしいと思う。

疫病(えきびょう)と日本最古の神社
崇神(すじん)天皇3年(西暦86年)に五月雨(さみだれ)は、40日も降(ふ)り続いて、疫病(えやみ)が流行して、稲が稲熱病(いもちびょう)になって、滋賀県の野洲川辺(やすかわべ)に仮屋(かりや)を建てて、祈祷(きとう)して、この疫病(えきびょう)が古代中国の後漢王朝時代にパンデミック(病気の大流行)の記録がなくて、霊帝(れいてい)時代の西暦168年から180年代にかけて、大規模な疫病が起きて、多数の死者が出て、西暦184年3月から185年の大規模な農民反乱の「黄巾(こうきん)の乱(らん)」が起きて、後漢王朝の衰退をもたらした。
崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月頃)は、三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)の国常立尊(くにのとこたちのみこと)を神璽(かんをして;八坂瓊勾玉:やさかにのまがたま)に付けて、天照神(あまてるかみ)を八咫鏡(やたのかがみ)に付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)に付けて、常に祭って皇居に安置したが、その神々の神威が強すぎて、畏(おそ)れ多く思って、病(やまい)を鎮(しず)めるために外(そと)に祭ることにした。
崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病(えやみ)が流行して、民の半分が死んで、民が離散して、村を離れ出てしまって、崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;八重垣剣(やえがきのつるぎ)も奉納して)をその(山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に)宮(みや)をお遷(うつ)しして(日本最古の神社)、翌日17日の夜に天照神(あまてるかみ;八咫鏡(やたのかがみ)も奉納して)も(所在地不明の元伊勢内宮の笠縫邑;かさぬいのむら)また(宮(みや)を)お遷(うつ)し申(もう)し上(あ)げた(日本最古の元伊勢内宮)。
日本神話に登場した三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)は、9世代の実在しない祖先化した歴代天皇時代に登場せず、実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇時代に神鏡の八咫鏡(やたのかがみ)と神剣の八重垣剣(やえがきのつるぎ)の形代(かたしろ;神霊が依(よ)り憑(つ)く依代(よりしろ)の一種)を作って、八重垣剣と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ;別名が草薙剣:くさなぎのつるぎ)が別物で、現代に神鏡と神剣が2種類あると伝承する。
崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)は、彦坐王(ひこいますのみこ)が大三輪神(おおみわのかみ;初代・大物主神(おおものぬしのかみ)と同一神)を神格化)の斎主(いわいぬし:さいしゅ:神事をする人)として、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;神様が降臨したり、宿(やど)ると考えられた巨石や岩場そのもの)を祭ったと考えられて、流行を極(きわ)めた疫病(えやみ)も、思いが天に通(つう)じてか治(おさ)まって、稲熱病(いもちびょう)も治(なお)って、穀物(こくもつ)が稔(みの)って、国民の生活が元に戻(もど)った。

崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月頃)から崇神天皇7年メ月1日(西暦90年11月頃)に祭った古代太陽神3神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と天照神(あまてるかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、後世に太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられる。
崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、魂返(たまがえ)しの秘法で、死んだ罪人の霊が地上に留(とど)まるから祟(たた)っため、迷う罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻して、日本最古の神社と疫病(えやみ)が古代天皇家の神道の母胎(ぼたい)と政教(政治と宗教)の分離で、疫病(えきびょう)の鎮魂(ちんこん)が目的で、崇神(すじん)天皇10年から12年(西暦93年から西暦95年)まで、京都府北部から島根県東部を平定して、各地に古代太陽神を祭るための布石(ふせき)だった。

矛盾(むじゅん)だらけの四道(しどう)将軍
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月頃)に崇神天皇は、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国に彦坐王(ひこいますのみこ)が総大将で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が副将で、吉備(きび;古代の岡山県)王国に吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、北陸地方に大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)で、東海地方に武渟川別(たけぬなかわわけ)を派遣して、この4人を四道(しどう)将軍と呼んで、崇神(すじん)天皇11年4月28日(西暦94年5月頃)に4人が各地方を平定して帰還したが、絶対に事実でない。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月頃)に北陸平定将軍の大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)とその息子で、東海平定将軍の武渟川別(たけぬなかわわけ)は、奈良県を出発して、歩いて進軍しながら東北地方南部までの敵を討伐して、翌年の崇神(すじん)天皇11年4月28日(西暦94年5月頃)までに奈良県に帰還して、期間的な矛盾(むじゅん)と四道(しどう)将軍の系図的(血縁的)な矛盾(むじゅん)があって、下記の僕の基礎理論(海部(あまべ)氏と吉備(きび)氏などの氏族や、各地方の平定の理論説明)が証明して、崇神天皇時代の領土拡大の記述を完全に否定した。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月頃)に丹波(たには;古代の京都府北中部)王国の平定は、彦坐王(ひこいますのみこ)が総大将で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が副将で、続(つづ)けて鳥取県を平定して、翌年の崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月頃)に奈良県の皇居で、彦坐王が出雲(いずも;島根県東部)王国の建国(物部(もののべ)氏の誕生)報告をして、2022年9月20日にようやく僕が出雲王国の建国(物部氏の誕生)を特定した。
京都府北部と兵庫県北部と鳥取県と島根県の平定は、崇神(すじん)天皇10年から12年(西暦93年から95年)で、京都府北部から島根県まで弥生時代後期の鉄製品の急増など、岡山県の平定が垂仁(すいにん)天皇28年から29年(西暦179年から180年)で、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)など、東海・中部地方から東北地方南部(東日本)の平定が成務(せいむ)天皇元年(日本武(やまとたけ)天皇元年)から仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦251年から254年)で、東日本の各地にある前方後円墳の築造時期など、僕が考古学的(遺跡・遺物)に証明した。
四道(しどう)将軍の4地域平定の史実(歴史上の事実)は、2010年代の前半か後半に僕が吉備(きび;古代の岡山県)王国の平定を特定して、ようやく4地域の平定年代が判明して、2026年8月1日から4日に西暦179年から180年の西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)と、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)などを特定して、超天才の僕を舐(な)めてはならない。

丹波(たには;古代の京都府北中部)から出雲(いずも;島根県東部)までの平定
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)は、総大将の彦坐王(ひこいますのみこ)が出陣して、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月頃)に奈良県の皇居で、京都府北部と兵庫県北部の平定を報告して、彦坐王の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が先祖の京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏が誕生して、元伊勢籠(この)神社に男性の古代太陽神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神格化)を祭る「きっかけ」になった。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月頃)に第2の元伊勢内宮は、巫女(みこ)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が天照神(あまてるかみ)の御神体の八咫鏡(やたのかがみ)を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)である真名井(まない)神社に奉納して、8月18日(9月頃)に真名井(まない)神社の瑞籬(みずがき;石の祭壇:さいだん)を作って、瑞籬(みずがき)が神社の神聖な場所の周囲に巡(めぐ)らした垣(かき)のことで、崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月頃)の丹波(たには;京都府北中部)平定後の出来事である。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内平定神話)と2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神格化)の丹波(たんば;古代の京都府北中部)の天孫降臨神話(丹波平定神話)は、弥生時代中期末頃に大阪府と京都府北部から兵庫県北部の2ヶ所で、大規模集落遺跡が急に断絶か衰退(すいたい)して、同じく2ヶ所で、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に小規模集落遺跡が急増して、大阪府と京都府の平定を神話化した考古学的証拠である。

崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月頃)は、出雲(いずも;島根県東部)王国の建国(物部(もののべ)氏の誕生)報告をして、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の出雲(いずも;島根県東部)の国引(くにひ)き神話(出雲(いずも)の創造神話)に神話化して、出雲神話と史実(歴史上の事実)が合致した証拠で、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に丹波(たには;古代の京都府北中部)から出雲(いずも;島根県東部)まで、鉄器文化が隆盛(りゅうせい)して、古代天皇家の邪馬台国(やまたいこく;大和国:やまとこく)以前の考古学的証拠である。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;大阪府東部)の天孫降臨神話(河内(かわち)平定神話)と2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神格化)の丹波(たんば;古代の京都府北中部)の天孫降臨神話(丹波(たんば)平定神話)と八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王を神格化)の出雲(いずも;島根県東部)の国引(くにひ)き神話(出雲(いずも)の創造神話)は、男性の古代太陽神3神(饒速日尊と2代目・火明命と八束水臣津野命)の国土開拓(かいたく)神話を意味する。
饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神で、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神格化)が京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の祖先神で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏が共(とも)に彦坐王の子孫で、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王を神格化)が出雲(いずも;島根県東部)の創造神である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の丹波(たには;古代の京都府北中部)の天孫降臨神話(丹波(たんば)平定神話)と丹波(たんば)平定の史実(歴史上の事実)の合致は、歴史研究ですぐに特定できたが、2012年1月に出雲王国を物部(もののべ)氏と特定して、2024年4月4日にネット検索で、『出雲国風土記』に記す八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の出雲の国引(くにひ)き神話(出雲の創造神話)を知って、他(ほか)にも出雲王国の建国(物部氏の誕生)の特定に、何段階もの条件が必要だった。
後世に分割した複数人の出雲(島根県東部)の古代太陽神は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)、島根県松江市の熊野大社の神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと;彦坐王を神格化)、『出雲国風土記』の創造神の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王を神格化)、太陽神の神格をワザと消した出雲大社の初代・大国主神(おおものぬしのかみ;彦坐王を神格化)など、多く存在した。

彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖(一番最初の先祖)とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏(物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏を含(ふく)んで、彦坐王の子孫全(すべ)てを統合した氏族名)は、河内(かわち;大阪府東部)と大和(やまと;奈良県)と丹波(たんば;古代の京都府北中部)と但馬(たじま;兵庫県北部)と出雲(いずも;島根県東部)と紀伊(きい;和歌山県)の熊野(くまの)信仰と美濃(みの;岐阜県南部)と尾張(おわり;愛知県西部)と伊勢(いせ;三重県中部)と吉備(きび;古代の岡山県)など、非常に古い1800年以上前の日本各地の太陽信仰と関係が深い。
邪馬台国(やまたいこく;古代天皇家の大和国:やまとこく)から見た方角は、北が丹波(たんば;古代の京都府北中部)に海部(あまべ)氏(京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家)で、北西が出雲(いずも;島根県東部)王家(物部(もののべ)氏)で、西が吉備(きび;岡山県と広島県東部)の吉備氏で、東が尾張(おわり;愛知県西部)の尾張氏(海部(あまべ)氏から分家;ぶんけ)で、それぞれの方角を守る武家の古代豪族で、超強力な武家で、超重要な意味を持っていたが、歴史の中で忘(わす)れ去(さ)られて、全(すべ)て和珥(わに)氏に属(ぞく)する。
邪馬台国(大和国;やまとこく)から見た方角は、北東が岐阜県や長野県の付近の中部地方で、南西が四国で、南が和歌山県南部で、南東が三重県南部だが、その方角を守る武家の古代豪族が具体例を挙(あ)げられず、北西を守る出雲(いずも;島根県東部)王家の正体が物部(もののべ)氏で間違いなくて、超天才の僕が求めた答えを100%誰も否定できない。

淡路島(あわじしま)と四国(しこく)東部(香川県と徳島県)の平定
崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)に崇神天皇は、今の海辺の国民に船がないため、献上品を運ぶのに苦しんで、諸国に命じて造船(ぞうせん;船(ふね)を造(つく)ること)させて、10月(11月頃)に初(はじ)めて船舶(せんぱく;大型の船)を作って、出雲までの伝令が辿(たど)り着く月日でなく、四国(しこく)に向かう船と考えられて、淡路島の平定がいつか不明で、香川県か徳島県を平定して、淡路島(あわじしま)と四国(しこく)東部(香川県と徳島県)の平定を2023年12月15日の午前1時頃に特定した。
香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡で、前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃で、前方後円墳の形が天皇家誕生より前の時代で、天皇家と無関係で、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に葬礼した崇神(すじん)天皇陵(崇神天皇古墳)が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と考えられて、2世紀中頃の築造年代と合致して、高松空港跡地遺跡の円形周溝墓を参考にしたと考えられる。
高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、古代天皇家が前方後円墳の形を参考にして、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に葬礼した崇神(すじん)天皇陵(崇神天皇古墳)を前方後円墳の形に採用した可能性が高くて、考古学(遺跡・遺物)も歴史学(歴史書解釈)で証明した。
2022年11月18日に知った徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代初頭で、西暦180年以前に水銀朱(すいぎんしゅ)が見つかって、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に亡くなった皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)である岡山県倉敷(くらしき)市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)の埋葬施設で、水銀朱の塗料を使って、3世紀前半のホケノ山古墳の埋葬施設でも水銀朱の塗料を使ったと考えられる。
若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、火を利用して採掘したと見られる国内最古の痕跡(こんせき)で、遺跡が2世紀から3世紀頃で、西暦100年が1世紀の最後の年号で、2世紀前半に徳島県を統治下に置いて、若杉山辰砂採掘遺跡から水銀朱(すいぎんしゅ)を産出したと考えられる。
高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、考古学(遺跡・遺物)も歴史学(歴史書解釈)で、2世紀中頃までに香川県と徳島県を古代天皇家の統治下に置いたと証明して、絶対に覆(くつがえ)らないと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇29年(西暦179年から180年)の西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)は、15才の皇子の五十足彦命(いしたりひこのみこと)が参戦して、 『予章記(よしょうき)』の開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)時代に四国(しこく)の土佐国(とさのくに;高知県)で、賊徒が反乱して勅命(ちょくめい)で、彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命を祖先化)を伊予国(いよのくに;愛媛県)に派遣して、15才から武将としての経験を蓄積した派遣で、派遣が応援の意味で、愛媛県に加勢するために行って、愛媛県が古代天皇家の領土と考えられる。
四国(しこく)の土佐国(とさのくに;高知県)平定は、垂仁(すいにん)天皇31年から景行(けいこう)天皇11年(西暦181年から201年)までの間(あいだ)に皇子の五十足彦命(いしたりひこのみこと)が平定して、高知県の平定が終了した後に景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)の九州全土の平定が実行されたと考えられて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の勝利で、超天才の僕が完全に特定した。

第2の元伊勢内宮
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月頃)は、京都府北部と兵庫県北部の平定を報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が先祖の京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏が誕生して、元伊勢籠神社に男性の古代太陽神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神格化)を祭って、崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月頃)に彦坐王の姪(めい)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が第2の元伊勢内宮として、元伊勢籠神社の奥宮(おくみや)である真名井(まない)神社の場所を決(き)めた。
崇神(すじん)天皇39年8月18日(西暦122年9月頃)に奥宮(おくみや)の真名井(まない)神社は、瑞籬(みずがき;石の祭壇:さいだん)を作って、瑞籬が神社の神聖な場所の周囲に巡(めぐ)らした垣(かき)のことで、真名井(まない)神社の石の祭壇そのものか、神社全体の石垣(いしがき)ができたか不明で、瑞籬に天照神(あまてるかみ)を祭って、この日が第2の元伊勢内宮の完成日で、その後に崇神(すじん)天皇60年(西暦143年)以降から、ずっと元伊勢内宮が奈良県や滋賀県や岐阜県などに移動し続けて、今の三重県で伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)に落ち着いた。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)である真名井(まない)神社は、非常に古(ふる)い古代信仰の神社で、第2の元伊勢内宮の遷宮(せんぐう)から、1904年目と考えるべきで、元伊勢籠神社宮司家の海部(あまべ)氏が誕生してから1932年目で、ちゃんと西暦年月で把握できる人物が世界中で、僕しかいない現実問題が超大切で、正しい現状理解とこれからの未来への視野が重要な意味・価値を持つ。
この時の天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、後世に太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)の神名の正式名称が天照神(あまてるかみ;彦坐王を神格化)と海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神格化)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王を神格化)の3神が合体した神格・神性である。

古代朝鮮国家の加羅国(任那国)と新羅国
崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)は、福井県敦賀(つるが)市に古代朝鮮国家の加羅国(からのくに)の王子である都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)が使者として来て、崇神天皇に仕(つか)えて、崇神天皇63年(西暦146年)に加羅国に帰国する時に崇神天皇の日本語読みの御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)が「みま」の呼び方から、加羅国(からのくに)に任那(みまな)の国号を与えて、古代天皇家が初(はじ)めて外国の加羅国(からのくに;日本語名は任那国:みまなのくに)と外交した。
崇神(すじん)天皇63年(西暦146年)に帰国した都怒我阿羅斯等(つのがあらしと;蘇那葛叱智(そなかしち)と同一人物)は、母国に帰る途中で、崇神天皇より拝領した土産(みやげ)の品を同じ古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)の者に奪(うば)われて、古代天皇家が初(はじ)めて外国の新羅国と戦争して、超天才の僕が歴史学(歴史書解釈)で、古代朝鮮国家の加羅国(からのくに;日本語名は任那国:みまなのくに)と新羅国の存在を証明して、考古学(遺跡・遺物)で証明できない。
古代日本は、弥生時代(紀元前10世紀頃から3世紀前半頃)に朝鮮半島から、鉄製品を仕入れて、古代天皇家が古代朝鮮国家の加羅国(からのくに;日本語名は任那国:みまなのくに)から、弥生時代後期(2世紀中頃)に鉄製品を仕入れて、弥生時代後期の日本海側(滋賀県から島根県東部)で、鉄製品が急増して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が鉄資源を巡(めぐ)って、野心(やしん)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反;むほん)を起こした一因と考えられて、2026年6月14日に新羅国(しらぎのくに)と戦争したと特定した。

彦坐王(ひこいますのみこ)の死去年
和歌山県田辺市の熊野本宮(くまのほんぐう)大社は、社伝で崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)に創建して、島根県松江市の熊野(くまの)大社も西暦148年頃に創建して、彦坐王(ひこいますのみこ)が90才か、100才頃まで生きたと考えられて、娘の沙本毘売命(さほひめのみこと)の年齢から、彦坐王が80才から90才頃まで生きたのを訂正して、2025年8月9日以降に年齢を修正した。
熊野本宮(くまのほんぐう)大社の熊野大神(くまののおおかみ)は、一般的に夫婦の伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を指(さ)すが、伊弉冉尊(狭穂姫を神格化)の父親で、島根県松江市の熊野(くまの)大社の祭神である神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と同一神である。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢内宮は、崇神(すじん)天皇60年(西暦143年)創建の大和国(やまとのくに;奈良県)の宇多秋宮(宇太阿貴宮;うだあきのみや)が奈良県宇陀(うだ)市の阿紀(あき)神社で、崇神天皇64年(西暦147年)創建の伊賀国(いがのくに;三重県北西部)の隠市守宮(なばりいちもりのみや)が三重県名張(なばり)市に候補地が複数あって、崇神天皇64年(西暦147年)に元伊勢内宮を伊賀国(三重県北西部)に遷(うつ)して、熊野本宮(くまのほんぐう)大社の創建年と合致した。
熊野本宮(くまのほんぐう)大社の創建年の崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)と伊賀国(いがのくに;三重県北西部)の元伊勢内宮である隠市守宮(なばりいちもりのみや)の創建年の崇神天皇64年(西暦147年)は、年数が1年違いで、社伝や『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の記述の考察から、孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)生まれの彦坐王(ひこいますのみこ)の死去年が崇神(すじん)天皇62年頃(西暦145年頃)と考えられて、90才から100才頃の可能性が高くて、まだ『ホツマツタエ』の彦坐王の死去年月日を特定してない。
天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、彦坐王(ひこいますのみこ)の死去年が崇神(すじん)天皇62年頃(西暦145年頃)で、崇神天皇64年頃(西暦147年頃)以降に男性の古代太陽神と彦坐王を同一視して、崇神天皇64年(西暦147年)創建の元伊勢内宮の隠市守宮(なばりいちもりのみや)と崇神天皇65年(西暦148年)創建の熊野本宮(くまのほんぐう)大社に祭って、天照神(彦坐王を神格化)の太陽神と、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の性格が生まれたと考えられる。

出雲王国(物部氏)の監視者と『ホツマ(秀真)』の本当の意味
崇神(すじん)天皇68年1月10日(西暦151年2月上旬頃)に92才か102才の崇神天皇は、皇后の生んだ長男の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を秀真司(ほつまつかさ;出雲国(いずものくに)を統治する役人などの上司;じょうし)に任命して、弟の垂仁(すいにん)天皇を皇太子に任命して、きな臭(くさ)い動(うご)きを見せる従弟(いとこ)の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を監視(かんし)して、秀真司が『ホツマツタエ(秀真伝)』の『ホツマ(秀真)』の真実を語(かた)る超重要な要素で、2026年6月14日に秀真司を特定した。
豊城彦命(とよきひこのみこと)の子孫が統治した秀真国(ほつまこく;東海地方)は、上毛野氏(かみつけの;群馬県の統治氏族)と下毛野氏(しもつけの;栃木県の統治氏族)を指すが、東国(とうごく)の秀真国(東海地方でなく、西国(さいごく)である秀真(ほつま;本当の真実の出雲王国(物部(もののべ)氏)の意味)から、『ホツマツタエ(秀真伝)』の本当の意味が秀真国(東海地方(富士山)と出雲王国(物部氏)の2国)を指(さ)して、富士山と出雲大社や古代の出雲大社の神魂(かもす)神社を指(さ)すと考えられる。
『ホツマツタエ(秀真伝)』の本当の意味は、「真(まこと)の中の真の出雲王国(物部(もののべ)氏)の言い伝え;本当の真実の出雲王国(物部氏)の伝承」を意味して、北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上である「御来光(ごらいこう)の道」の直線上に神魂(かもす)神社があって、天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼ぶ出雲大社と共に神魂神社が太陽信仰の超重要な神社でもあって、富士山と神魂神社と出雲大社の超関連性を指(さ)すと考えられる。

『ホツマツタエ(秀真伝;真(まこと)の中の真の言い伝え:本当の真実の伝承)』の本当の意味は、「真の中の真の東海地方(富士山)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2国の言い伝え;本当の真実の富士山と出雲王国(物部氏)の伝承」と考えられて、北緯35度22分の富士山と出雲大社を直線で、結(むす)んだ春分と秋分の日の直線上(北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道」)が超重要で、日本国(邪馬台国;大和国:やまとこく)のレイライン(太陽の道)の本質と考えられる。
北緯35度22分の「御来光(ごらいこう)の道」は、富士山と出雲大社と古代の出雲大社の神魂(かもす)神社を結(むす)ぶ直線(太陽の道のレイライン)で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;卑弥呼(ひみこ)の倭姫命と台与(とよ)の神功皇后を神格化)を指(さ)して、新旧の太陽神と古代太陽信仰の痕跡(こんせき)である。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の子孫である香取(かとり)神宮の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と鹿島(かしま)神宮の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、日本武(やまとたけ)天皇元年(西暦252年)に中部(東海)地方の富士山を統治下に置いて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月10日から17日(西暦260年11頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊(ほうかい)させて、秀真国(ほつまこく;東海地方(富士山)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の2国)を指(さ)す。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、東日本平定(中部地方から東北地方南部の平定)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい)で、活躍した武神(軍神;いくさがみ)で、太陽神で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)を支(ささ)えた忠臣(ちゅうしん;真心(まごころ)を尽(つ)くして、主君に仕(つか)える家臣)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の基盤を作った。
鹿島(かしま)神宮のレイライン(太陽の道)は、鹿島(かしま)神宮の「東の一の鳥居(とりい)」から昇(のぼ)る夏至(げし)の朝日の延長線が天皇陛下の住む皇居、日本の霊峰の富士山、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)を祭る伊勢神宮、標高1955メートルの剣山(つるぎさん)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊:ほむだわけのみこと:即位しない応神(おうじん)天皇)が天孫降臨した山の高千穂峰(たかちほみね)、標高1592メートルの活火山の阿蘇山(あそざん)が位置して、パワースポット(強力で神秘的な場所)とされる。

初代天皇の墓(はか;崇神(すじん)天皇陵(てんのうりょう):崇神天皇古墳)
宮内庁指定の崇神(すじん)天皇陵の行灯山(あんどんやま)古墳は、奈良県天理市柳本町(やなぎもとちょう)にあって、全長242メートルの前方後円墳で、4世紀前半の築造と考えられて、2世紀中頃の垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月頃)葬礼の崇神天皇陵(崇神天皇古墳)と時期が合致しない。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、前方後円墳の形が天皇家誕生より前の時代で、前方後円墳の形が天皇家と無関係で、本当に人を葬(ほうむ)った墓(はか)か分からず、考古学的(遺跡・遺物)なネット情報が不十分で、崇神(すじん)天皇17年10月(西暦100年11月頃)に初めて、四国の香川県と徳島県に渡(わた)る船舶(せんぱく;大型の船)を作って、四国の東部が統治下にあると考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。
初代天皇の崇神(すじん)天皇は、崇神天皇68年12月5日(西暦152年1月頃)に92才か102才で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、仮(かり)の歴代天皇の最高齢で、崇神天皇陵(崇神天皇古墳)の最有力候補が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月頃)に崇神(すじん)天皇を葬礼して、2世紀末に築造した息子の垂仁(すいにん)天皇陵(垂仁(すいにん)天皇古墳)である最古の前方後円墳の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳よりも、古(ふる)い考古学的証拠である。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月頃)は、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)が生まれて、崇神天皇68年12月5日(西暦152年1月頃)に102才で、亡くなった計算になるが、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月頃)に崇神(すじん)天皇が35才で即位して、垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月頃)に娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が数え年103才(実年齢102才)で、西暦74年頃の生まれで、西暦74年に崇神天皇が25才でもおかしくなくて、現在の上皇様も92才で、歴代天皇の最高齢に並(なら)ぶ。

崇神(すじん)天皇陵(崇神天皇古墳)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、崇神(すじん)天皇を祖先化した皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代天皇の神武(じんむ)天皇陵の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ;四条(しじょう)ミサンザイ古墳)との関連性や、築造年代や埋葬場所の近(ちか)さや前方後円墳の形などの合致で、間違いなく確実な初代天皇陵(初代天皇古墳)で、2022年10月18日に前方後円墳をネット検索して、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を特定した。
弥生時代の墓(はか)は、墳墓(ふんぼ)で、前方後円墳の形の墳墓(ふんぼ)が円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、古墳時代の墓(はか)を古墳と呼んで、一般的に考古学会(遺跡・遺物)が最古の前方後円墳を2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇陵(垂仁天皇古墳)の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳か、3代目天皇の景行(けいこう)天皇陵(景行天皇古墳)の箸墓(はしはか)古墳とするが、僕が崇神(すじん)天皇陵(崇神天皇古墳)の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓を初代天皇の前方後円墳と改定して、前方後円墳の出現が日本国の建国(天皇家誕生)と僕が証明した。
つまり古墳時代の始(はじ)まりは、2世紀中頃の垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月頃)で、2世紀末の垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)でも、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か、仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)でもなく、弥生時代と古墳時代の境界線や墳墓(ふんぼ)と古墳の定義付けを見直して、超天才の僕の影響力が圧倒的に強いためである。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、他(ほか)に兵庫県赤穂(あこう)市の有年原田中(うねはらたなか)遺跡が2世紀後半頃で、大阪市の長原(ながはら)遺跡と滋賀県長浜(ながはま)市の五村(ごむら)遺跡が3世紀初頭頃で、前方後円墳の原形の墳丘墓(ふんきゅうぼ)で、僕がネット検索を必死にして、詳細を特定した。

崇神(すじん)天皇を初代天皇と考える学説
初代天皇と考えられる天皇は、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代天皇の神武(じんむ)天皇、皇統譜で10代目天皇の崇神(すじん)天皇、皇統譜で15代目天皇の応神(おうじん)天皇か、息子で16代目天皇の仁徳(にんとく)天皇、皇統譜で25代目天皇の継体(けいたい)天皇の5人で、彼らが主流の初代天皇と考えられる天皇だが、その理由が滅茶苦茶で、正しい意見や感想を持って、考える必要がある。
崇神(すじん)天皇を初代天皇と考える学説は、崇神天皇を天皇家の創始者(そうししゃ;ある物事を始(はじ)めた最初の人)とする考え方で、『日本書紀』で崇神天皇元年から68年(紀元前97年から紀元前30年)の在位期間で、邪馬台国(やまたいこく)論争で3世紀中頃の在位期間とするが、完全な嘘(うそ)で、僕の自論の崇神天皇元年から68年(西暦84年から151年)の在位期間が100%正しくて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)から間違いないけれど、神武(じんむ)天皇や女王の卑弥呼(ひみこ)が正しいと信じる大馬鹿者の凡人たち(僕以外の人間)が混乱させた。
初代天皇の称号(しょうごう;身分・資格・地位などを表(あら)わす呼び名)の「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと;所知初国之御真木天皇:はつくにしらししみまきのすめらみこと)」を持つ崇神(すじん)天皇は、同じく初代天皇の称号の「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」を持つ神武(じんむ)天皇に祖先化して、「はつくにしらすすめらみこと」が「初(はじ)めて国(くに)を知(治;し)らせた天皇」の意味で、5代目の仁徳(にんとく)天皇も神武天皇に祖先化するが、初代天皇の称号を持たず、神武天皇が実在した初代天皇の崇神天皇と5代目天皇の仁徳天皇の2人を祖先化して、超天才の僕を騙(だま)せない。
歴代天皇の中で「神(かみ)」の漢字を持つ天皇は、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代天皇の神武(じんむ)天皇と、皇統譜で10代目天皇の崇神(すじん)天皇と、皇統譜で15代目天皇の応神(おうじん)天皇の3人で、歴代の皇后(こうごう)の中で「神(かみ)」の漢字を持つのが神功(じんぐう)皇后で、実在した初代天皇の崇神天皇を祖先化したのが神武天皇と証明して、初代天皇の神武天皇と崇神天皇が「神(かみ)」の漢字を持つ理由が説明できた。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月頃)に崇神天皇は、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国に彦坐王(ひこいますのみこ)が総大将で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が副将で、吉備(きび;古代の岡山県)王国に吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、北陸地方に大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)で、東海地方に武渟川別(たけぬなかわわけ)を派遣して、この4人を四道(しどう)将軍と呼んで、崇神(すじん)天皇11年4月28日(西暦94年5月頃)に4人が各地方を平定して帰還したが、絶対に事実でない。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月頃)に北陸平定将軍の大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化)とその息子で、東海平定将軍の武渟川別(たけぬなかわわけ)は、奈良県を出発して、歩いて進軍しながら東北地方南部までの敵を討伐して、翌年の崇神(すじん)天皇11年4月28日(西暦94年5月頃)までに奈良県に帰還して、期間的な矛盾(むじゅん)と四道(しどう)将軍の系図的(血縁的)な矛盾(むじゅん)があって、僕の基礎理論(海部(あまべ)氏と吉備(きび)氏などの氏族や、各地方の平定の理論説明)が証明して、崇神天皇時代の領土拡大の記述を完全に否定した。
西暦81年に大阪府を平定した古代天皇家は、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月頃)に崇神天皇が奈良県で即位して、これが日本国の建国(天皇家誕生)で、崇神天皇3年(西暦86年)に滋賀県の野洲川辺(やすかわべ)で祈祷(きとう)して、崇神天皇11年4月28日(西暦94年5月頃)に丹波(たには;古代の京都府北中部)王国の平定を報告して、崇神天皇12年3月11日(西暦95年4月頃)に出雲(いずも;島根県東部)王国の建国(物部(もののべ)氏の誕生)報告をして、丹波(古代の京都府北中部)から出雲(島根県東部)までの日本海側が古代天皇家の領土になった。
崇神(すじん)天皇6年9月17日(西暦89年10月頃)の夜は、日本最古の元伊勢内宮を祭って、崇神天皇39年8月18日(西暦122年9月頃)に京都府宮津市の元伊勢内宮を祭って、崇神天皇51年(西暦134年)に木乃国(きのくに;紀伊国:きいのくに)の元伊勢内宮を祭って、崇神天皇54年(西暦137年)に祭った吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の元伊勢内宮を否定して、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)の吉備国(古代の岡山県)平定を証明して、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)に伊賀国(いがのくに;三重県北西部)の元伊勢内宮を祭って、古代天皇家の領土拡大を証明した。
弥生時代中期末頃に大阪府と京都府北部から兵庫県北部の2ヶ所は、大規模集落遺跡が急に断絶か衰退(すいたい)して、同じく2ヶ所で、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に小規模集落遺跡が急増して、大阪府と京都府の平定を証明した考古学的証拠で、弥生時代後期の日本海側(滋賀県と京都府北部と兵庫県北部と鳥取県と島根県東部)で、鉄製品が急増して、古代天皇家の領土で鉄製品を大量に使用した証拠で、他(ほか)にも多くの考古学的証拠(遺跡・遺物)が古代天皇家の領土拡大を証明した。

日本神話の崇神(すじん)天皇は、始原神(始源神;しげんしん:世界や宇宙の始(はじ)まりに関わる最初の神様や根源の神様のこと)の天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)と国常立尊(くにのとこたちのみこと)に神格化して、2神とも存在感が薄(うす)くても、圧倒的な影響力の最高神で、崇神天皇が68年間の在位期間でも、存在感が薄(うす)いと考えがちだが、実在した初代天皇の証拠が考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、100%間違いなくて、間違いと否定する方が難(むずか)しくて、理論的・理性的・学問的・学術的に初代天皇と正しく認識して、後世に徹底的・根本的に伝承させる必要がある。
崇神(すじん)天皇は、初代天皇の称号(しょうごう;身分・資格・地位などを表(あら)わす呼び名)を持つこと、歴代天皇の中で「神(かみ)」の漢字を持つ天皇であること、実在した時代の領土拡大を証明できること、実在した時代の神社を創建(そうけん;神社を初(はじ)めて建(た)てること)した事実を証明できることなど、多くの証拠や理由を持ってして、超天才の僕があまりに簡単に実在した初代天皇と証明できる。

垂仁(すいにん)天皇の2代目天皇即位(そくい)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月頃)に初代天皇の崇神天皇は、92才か102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年1月1日(西暦152年2月頃)に息子の垂仁天皇が2代目天皇に即位(そくい)して、垂仁天皇の存在感が古代中国の邪馬台国(やまたいこく)論争の歴史書『後漢書(ごかんしょ)』と『三国志・魏志倭人伝』と合致して、邪馬台国(やまたいこく;大和国:やまとこく)論争の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)が大和朝廷(古代天皇家)の歴史の開始でなく、垂仁天皇時代の歴史の証明が僕にとって、あまりに超簡単な作業である。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は、日本神話で一番最初の神様の天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神天皇を神格化)の直系子孫で、両親がその子孫の面足尊(おもだるのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と惶根尊(かしこねのみこと;御井津比売(みいつひめ)を神格化)で、このように日本神話の神々の系図を証明した僕の史料が凄(すさ)まじすぎる。
国宝『海部(あまべ)氏系図』の神様の系図は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)の子供が伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)で、その子供が天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と記して、神様の系図が間違いなく正しいと超天才の僕が証明して、このような日本神話の神々の領域…神域を特定する超作業が僕なら、あまりに簡単な奇跡の神技(かみわざ)である。

垂仁(すいにん)天皇を神格化した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、日本神話の国生(くにう)み神話の神様で、初代天皇を神格化したと錯覚(さっかく)するが、間違いなく2代目天皇だから、単なる勘違いと認識することが大切で、本当の史実・真実・事実を理解する正しい理解力・認識力を持って、日本神話と邪馬台国(やまたいこく)論争が連動する事実を受け入れて、世界中(人類史上)で僕にしか、特定できない現実問題を理解・認識してほしい。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の神生(かみう)み神話は、伊弉諾尊の子供たちの子孫(伊弉諾尊の子孫)が本当に正しいか証明できず、超天才の僕でも神々の系図や属性や特徴などを完全に証明できてなくて、決して投(な)げ出したりや怠(なま)けたわけでなく、特定する機会(チャンス)や「きっかけ」が無かっただけで、僕が特定した総合的な資料で、ある程度なら特定できるはずで、何の史料も存在しないわけでない。
正妻(最初の皇后)の伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、焼死(戦死)して、夫の伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)だけか、2番目と3番目の皇后(伊弉冉尊に神格化)の子供が異母姉弟(娘と息子)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)を生んで、月読尊の弟が素戔嗚尊(すさのおのみこと)だが、月読尊の息子の素戔嗚尊(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が国賊(こくぞく)だから、直系系図から外(はず)した。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の神話は、国生(くにう)み神話と神生(かみう)み神話が彼の領土や子孫の神話化・神格化などで、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が倭国大乱(わこくたいらん;2代目出雲国王(出雲王国;物部(もののべ)氏)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)で、三貴子(みほしらのうずのみこ)誕生神話が子供の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の誕生で、彼が天界に神上(かみあ)がったのが死去したためで、日本神話の前後関係(順番)を証明した。
国生(くにう)み神話の男神(おがみ)の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、間違いなく垂仁(すいにん)天皇を神格化して、全部の説明が難(むずか)しくて、ある程度の簡単な説明で終了するが、自分自身で十分に理解して、解決しほしいと思い願(ねが)う。

倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)
古代朝鮮国家の7代目・新羅(しらぎ)国王の逸聖尼師今(いつせいにしきん)は、生年月日を不明で、垂仁(すいにん)天皇3年1月頃(西暦154年2月)に死去して、在位期間が西暦134年から154年で、『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代の三韓征伐(さんかんせいばつ)のまた一説によるとの記述から、僕が完全解釈した結果が古代天皇家との戦争で、戦死した可能性があって、歴史学(歴史書解釈)から、戦死の可能性が正しいと考えられる。
2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇は、垂仁(すいにん)天皇2年12月(西暦154年1月頃)に最初の皇后の狭穂姫(さほひめ)との間(あいだ)に息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだが、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月頃)に皇后が実兄の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)と不倫(ふりん)して、できた皇子が不義(ふぎ)の子の可能性を告白して、この日が『後漢書』の「倭国大乱(わこくたいらん)」で、『三国志・魏志倭人伝』が「倭国乱(わこくらん)」と記して、倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)が邪馬台国(やまたいこく)論争の最初の出来事である。
倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)は、垂仁(すいにん)天皇が総大将で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の監視者(秀真司;ほつまつかさ)で、垂仁(すいにん)天皇の実兄の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が副将で、最初の戦場が出雲(いずも;島根県東部)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の垂仁(すいにん)天皇に古代朝鮮国家の加羅国(からのくに;日本語名は任那国:みまなのくに)で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の狭穂彦王(さほひこのみこ)に同じく、古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)が味方(みかた)したと考えられて、2026年6月14日に古代朝鮮国家の参戦を特定した。
垂仁(すいにん)天皇が有利(ゆうり)な戦況は、敵国の新羅国(しらぎのくに)を味方(みかた)して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と加羅国(からのくに;日本語名は任那国:みまなのくに)と新羅国(しらぎのくに)の3国同盟で、戦況が不利(ふり)な狭穂彦王(さほひこのみこ)が古代天皇家の敵国の伊勢国(いせのくに;三重県中部)に亡命(ぼうめい)して、三重県熊野市で狭穂彦王(さほひこのみこ)と実妹で、皇后の狭穂姫(さほひめ)が焼死して終戦して、不義(ふぎ)の子の可能性がある皇子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を父の垂仁(すいにん)天皇に託(たく)したが、皇子を後世に皇族から外(はず)した。

垂仁(すいにん)天皇7年6月頃(西暦158年7月頃)に終戦後は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の息子の野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たえまのくえはや)が3代目出雲国王に推薦(すいせん)されて、野見宿禰(のみのすくね)が垂仁(すいにん)天皇で、当麻蹶速(たえまのくえはや)が狭穂彦王(さほひこのみこ)に味方(みかた)して、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月頃)に力を競(きそ)う神事の角力(相撲;すもう)を提案して、組(く)み合(あ)いで、野見宿禰(のみのすくね)が兄弟の当麻蹶速(たえまのくえはや)を殺して、3代目出雲国王になった。
崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の元伊勢内宮は、伊賀国(いがのくに;三重県北部)の隠市守宮(なばりいちもりのみや)が三重県名張(なばり)市に候補地が複数あって、垂仁(すいにん)天皇7年(西暦158年)の終戦後に敵国(記録からの想像)の伊勢国(いせのくに;三重県中部)を古代天皇家の領土に編入(へんにゅう)して、西暦165年に伊勢国(いせのくに)で、初めて元伊勢内宮ができて、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月頃)に伊勢神宮の内宮で、翌日17日に伊勢神宮の外宮(げぐう)を最終遷宮(せんぐう)した。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、2002年10月頃に僕が歴史研究を開始して、数日後に神話化と神格化を確信して、僕が古代日本史(古代天皇家の歴史)に終止符(しゅうしふ)をもたらす救世主になる運命や宿命や天命の持ち主で、奇跡の中の奇跡や神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)と言うべき大偉業で、倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)が垂仁天皇28年から29年(西暦179年から180年)の西国反乱(さいごくはんらん)と並(なら)ぶ国家存亡の大戦争で、古代天皇家で史上最大規模の戦争の一つである。
倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話に神話化して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇の反乱(『三国志・魏志倭人伝』の男王(だんおう)の反乱で、出雲(いずも)の国譲(くにゆず)り神話に神話化)よりも、『ホツマツタエ』が超重視して、古代朝鮮国家の加羅国(からのくに;日本語名は任那国:みまなのくに)と新羅国(しらぎのくに)の介入(かいにゅう)など、多くの理由で超重視された。
地下の神々の世界である黄泉国(よみのくに)や根国(ねのくに)は、「死者の世界」や「地獄(じごく)」と解釈できて、不倫(ふりん)したことが出雲王国(物部(もののべ)氏)の存続を危険にさらして、「死者の世界」や「地獄(じごく)」に堕(お)ちた(堕落(だらく)した)と神話化された理由で、一般的に黄泉国(よみのくに)の入り口の黄泉比良坂(よもつひらさか)が島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)だが、僕が黄泉国(よみのくに)を三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社と解釈して、黄泉国(よみのくに)の完全解釈が反乱の始(はじ)まりと終(お)わりの土地と考えられる。
黄泉国下(よみのくにくだ)り神話は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の正妻(最初の皇后)の伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)が焼死(戦死)して、2番目と3番目の皇后(伊弉冉尊に神格化)の子供が異母姉弟(娘と息子)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)を生んで、月読尊の弟が素戔嗚尊(すさのおのみこと)だが、月読尊の息子の素戔嗚尊(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が国賊(こくぞく)だから、直系系図から外(はず)した。

邪馬台国(やまたいこく)論争
邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から、摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后が西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)に遣使した年号までの合計111年で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊(ほうかい;僕自身が王国の滅亡(めつぼう)と表現しない。:出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化した。)が超重要な意味・価値を持つ。
『後漢書』は、邪馬台国(やまたいこく)で、『三国志・魏志倭人伝』が邪馬壱国(やまいちこく)と壱与(いちよ)と記して、台(たい)が古代中国で、「と」か「ど」に近い発音とされて、壱与(いちよ)でなく、と台与(とよ)とされて、邪馬台国(やまたいこく)が古代天皇家の大和国(やまとこく)で、女王の卑弥呼(ひみこ)が伊勢神宮の巫女(みこ)の倭姫命(やまとひめのみこと;邪馬台卑弥呼)で、卑弥呼(ひみこ)の後継者の女王とする台与(とよ)が神功(じんぐう)皇后の消(け)された人名の豊姫尊(とよひめのみこと;台与卑弥呼)で、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)が絶対に女王でない結論が正しい。
邪馬台国(やまたいこく)論争は、畿内説の大和(やまと;奈良県)論が近年に都市遺跡の纒向(まきむく)遺跡(僕が景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)と特定したが、十分に信用されてない。)に注目して、100%あり得ない九州説より有利だが、専門家(考古学会と歴史学会)を含(ふく)めた研究者たちが根本的・徹底的に学問(考古学と歴史学)の基礎(一般的な知識など)ができてなくて、超天才の僕の4大理論(神話化や神格化・祖先化・子孫化や即位年干支法(そくいねんかんしほう)や『日本書紀』の「尊(みこと)」と「命(みこと)」の書き違い)など、物事の基礎を蔑(ないがし)ろにしすぎた。

邪馬台国(やまたいこく)論争の九州説は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で完全に否定して、古代天皇家の畿内説(大和国;やまとこく)が僕の自論で、100%誰の反論も許(ゆる)さなくて、邪馬台国が古代天皇家の歴史(大和国)と証明できない理由を探(さが)す方が不可能で、超天才の僕の知名度がなくて、水面下で確実に反撃する「きっかけ」を作り続けて、何もしない状況が今に至(いた)る。
他(ほか)の邪馬台国(やまたいこく)論争の学説は、出雲(いずも;島根県東部)説や吉備(きび;岡山県と広島県東部)説や丹波(たんば;古代の京都府北中部)説や阿波(あわ;徳島県)説や尾張(おわり;愛知県西部)説など、主流でない物も含(ふく)めて、50個を超えると言うが、他(ほか)にも名乗らないだけで、幾らでも存在する現状も、有力な古代豪族がいた候補地も、僕なら黙(だま)らせることなど、あまりにも簡単で、邪馬台国論争の主要な僕の基礎理論が歴史研究の開始から、約半年で完成して、専門家(考古学会と歴史学会)を含めた凡人(僕以外の人間)との決定的な認識力の違(ちが)いである。
日本神話と邪馬台国(やまたいこく)論争と倭(わ)の五王の認識力は、「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」を編集した西暦681年から720年(7世紀後半から8世紀前半)当時の古代天皇家の人間(皇族と古代豪族たち)と、今の僕を比較できないが、少なくとも1300年以上前に失(うしな)われた超知識を復活・再現して、正しい可能性を現代人(僕以外の人間)に教(おし)え教(おそ)わらせる奇跡の神技(かみわざ)が僕以外に可能だろうか?

卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の誕生
垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月頃)に垂仁天皇と2番目の皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと;諱(いみな)が良子:よしこ)と倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこ;諱(いみな)が鳥彦:とりひこ)と倭稚屋姫命(やまとわかやひめのみこと)の3つ子を生んで、3つ子を生んだ難産で、産後の病状が悪く、翌月10月2日(11月上旬頃)に亡くなって、死後に筒木樺井月神(つつきかばいのつきのかみ)の神名で祭り上げた。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代中国語の当(あ)て字が邪馬台卑弥呼(やまたいひみこ)で、3つ子の姉弟が倭(やまと)を冠する人名が本名(ほんみょう)と考えられて、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命を祖先化)の正体を僕が歴史研究を開始して、約半年ほどで特定して、卑弥呼(ひみこ)が女王でなく、一皇女にすぎない結論が正しい。
垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に垂仁天皇と3番目の皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)は、次男の倭忍代別尊(やまとおしろわけのみこと;後(のち)の景行(けいこう)天皇)を生んで、諱(いみな)を足彦(たりひこ)で、『三国志・魏志倭人伝』に登場する王族の卑弥呼(ひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)に当たって、女王と勘違いした卑弥呼(ひみこ)以上の権力を3代目天皇だから、簡単に説明できる。

『三国志・魏志倭人伝』の女王国の卑弥呼(ひみこ)は、女王国(伊勢国;いせのくに;三重県中部)の統治者(伊勢神宮の巫女(みこ)の倭姫命;やまとひめのみこと)で、その男弟(だんてい)が邪馬壱国(やまいちこく)の統治者(男性王)で、邪馬台国(大和国;やまとこく)の男弟(異母弟)の景行(けいこう)天皇で、『後漢書』に女王国(伊勢国;三重県中部)から、海を渡(わた)って千里余(あま)りで、南九州の拘奴国(くなこく;熊襲(くまそ)王国)に至(いた)ると解釈して、世界でただ一人の僕しか、正しい史実・真実・事実を特定できなかった。
卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇は、邪馬台国(やまたいこく)論争の女王と勘違いする卑弥呼と男弟(異母弟)の3代目天皇で、3代目天皇の男弟(異母弟)の権限を一皇女の卑弥呼が超(こ)えるはずもなく、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命を神格化)が弟で、月の神様の月読尊(つくよみのみこと;景行天皇を神格化)よりも、上位(じょうい)の神様だから勘違いした。
『ホツマツタエ』でヤマトヒメ(倭姫)の異母弟の景行(けいこう)天皇は、「記紀(きき;『古事記』と『日本書紀』)」で、倭姫命(やまとひめのみこと)の実兄と記して、「記紀」の系図が正しいと思い込ませて、邪馬台国(やまたいこく)論争の一皇女の卑弥呼(ひみこ)と3代目天皇の男弟(だんてい;異母弟)と合致させて、日本神話の天照大神(あまてらすおおみかみ)と月読尊(つくよみのみこと)の姉弟(してい)とも合致させて、超天才の僕が全(すべ)て、暴(あば)くのを恐(おそ)れた証拠である。
専門家(考古学会と歴史学会)を含めた凡人(僕以外の人間)は、女王国(伊勢国;いせのくに:三重県中部)の卑弥呼(ひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)と邪馬台国(やまたいこく;大和国;やまとこく:奈良県)の3代目天皇の男弟(だんてい;異母弟の景行(けいこう)天皇)を勘違いして、邪馬台卑弥呼(やまたいひみこ)が倭姫命の当(あ)て字とも分からず、邪馬台国論争の無知を知(し)ったかぶりして、ひけらかす大馬鹿者たちが恥(は)ずかしすぎる。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月頃)の夜は、日本最古の神社の大和(おおやまと)神社を祭って、旧暦の同日に3つ子の長子(ちょうし)の倭姫命(やまとひめのみこと)が生まれた神性(神聖;しんせい)から、倭姫命の霊力(天照大神(あまてらすおおみかみ)の神力;しんりき)が一生独身(処女;しょじょ)のためで、天照大神も卑弥呼(ひみこ)も、一生独身だったと記す。

卑弥呼(ひみこ)共立や伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)の最終遷宮(せんぐう)
天鈿女命(あめのうずめのみこと;誰を神格化したか不明)は、10才の倭姫命(やまとひめのみこと)の髪を大垂髪(おおすべらかし)にゆい上げるために、髪をほどいて落とした間に年が明けて、(垂仁(すいにん)天皇23年1月)初日(西暦174年2月頃)が明けると共に小原を立って、伊勢の高宮(たかみや)に入って、初代の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女:伊勢神宮の巫女:みこ)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕(つか)えて、2代目・伊勢神宮の斎王の見習い任命で、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立である。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、摂政(せっしょう)3年(西暦263年)の天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話に猿田彦(さるたひこ;2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の息子の誰かを神格化)の子供の誰かを神格化)の妻の天鈿女命で登場して、猿田彦神も垂仁天皇26年(西暦177年)に登場して、猿田彦神と天鈿女命の夫婦が2組を神格化した証拠と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月頃)に垂仁天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、伊勢神宮の最終遷宮(せんぐう)を命令して、3月8日(西暦176年4月頃)に古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の御霊(みたま)を102才の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離(はな)して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、倭姫命が念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女:伊勢神宮の巫女:みこ)となって、正式な卑弥呼(ひみこ)共立である。
卑弥呼(ひみこ)共立は、凡人(僕以外の人間)が勝手に何らかの戦争の倭国大乱(わこくたいらん)終戦後に30余(あま)りの国々が共立して、女王の卑弥呼(ひみこ)を選出したと思い込んで、天照大神(あまてらすおおみかみ)の高天原(天空の神々の世界;大和朝廷)の(女帝の)即位と勘違いして、日本神話と史実(歴史上の事実)の勘違いを結(むす)び付けた重複が原因で、超天才の僕が正しい古代天皇家の歴史の西暦年月を特定して、一つ一つ詳細に説明して打破して、僕が歴史研究を開始して、約半年で特定した史実・真実・事実である。

おそらく垂仁(すいにん)天皇26年9月15日(西暦177年10月頃)は、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮の外宮(げぐう)を最終遷宮(せんぐう)して、翌日9月16日(西暦177年10月頃)が倭姫命の14才の誕生日で、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の御霊(みたま;霊魂)を五十鈴川(いすずがわ)辺の賢釧宇治(さごくしろうぢ)の宮居(伊勢神宮の内宮;ないぐう)を最終遷宮(せんぐう)して、翌日9月17日(西暦177年10月頃)の夜に御丈柱(みたけばしら;伊勢神宮本殿の下に建(た)てる心(しん)の御柱(みはしら)か?)を納(おさ)めた。
そして天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神託(しんたく)は、「我(われ)も豊受(とよけ;豊受大神:とようけおおかみ:彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と諸共(もろとも)に守護するだろう。」と言って、『ホツマツタエ』が天照神と豊受大神を一緒に祭って、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)を同時に最終遷宮(せんぐう)したと記して、それが史実・真実・事実で、賢釧宇治(さごくしろうぢ)の宇治(うじ)が三重県伊勢市宇治舘町(うじやかたちょう)1番地の伊勢神宮内宮を指(さ)す。
伊勢神宮の内宮(ないぐう)の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と外宮(げぐう)の豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王を神格化)は、天照神の神託から伊勢神宮の最終遷宮日(せんぐうび)が垂仁(すいにん)天皇26年9月15日と翌日9月16日(西暦177年10月頃)で、共(とも)に亡くなった彦坐王を神格化して、生きている倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化するはずもなく、時系列順を正しく理解すれば特定できて、即位年干支法(そくいねんかんしほう)を生み出して、すぐに伊勢神宮内宮の最終遷宮日を特定した。
伊勢神宮外宮(げぐう)の最終遷宮日(せんぐうび)は、ずっと『ホツマツタエ』から垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月頃)と勘違いして、2026年8月11日の夜明け前にようやく、前日9月15日の可能性に気付いて、記述の修正などをして、伊勢神宮の遷御(せんぎょ;神霊や天皇などの居場所を別の場所へ遷(うつ)こと)が『 延喜式 えんぎしき 』「伊勢大神宮」巻によると、古儀(こぎ)において外宮(げぐう)が旧暦9月15日で、内宮(ないぐう)が翌日9月16日に執(と)り行(おこな)われた。

天皇家の祖先神である父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、一生独身で子孫がいなくて、太陽神の巫女(みこ;神社で神職を補佐(ほさ)して、神前での奉仕や神楽舞(かぐらまい)、授与品の頒布(はんぷ)などを行(おこ)なう女性の奉仕者で、古代に神がかりして神託を伝える役割もあった。)の性格が生まれて、太陽の光の天照大神(倭姫命を神格化)に対して、月の影(かげ)の月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)を対比して、凡人(僕以外の人間)が日本神話に捕(と)らわれる。
天皇家の祖先神の太陽神は、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と、現在の女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命と神功皇后を神格化)に二分して、神様の性格から天照神が男性の古代太陽神の彦坐王だけで、後世に女性の性格の倭姫命と神功皇后を追加した可能性があるが、明確に証明できない。
天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)の神様の性格は、男性の性格の彦坐王と、女性の性格の倭姫命と神功皇后に二分して、女性の性格の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命と神功皇后を神格化)が絶対に男性の性格の彦坐王を加(くわ)えない鉄則がある。

西国反乱(さいごくはんらん)
僕の西国反乱(さいごくはんらん)の歴史研究は、吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の吉備(きび;現在の岡山県と広島間東部でなく、古代の岡山県)の鬼退治である温羅(うら;おんら)伝説を知って、『ホツマツタエ』の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年)が垂仁(すいにん)29年(西暦180年)と特定して、吉備国王の温羅討伐と考えて、おそらく吉備王国平定を2010年代の前半か後半に特定して、2025年12月28日の午後8時頃にあるユーチューブ動画を見て、吉備王国でなく、兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定が正しいと気付いた。
三尾(みお)氏の先祖の磐衝別命(いわつくわけのみこと;倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)と同一人物)は、従弟(いとこ)の吉備津彦(きびつひこ)こと祖別命(みおやわけのみこと)の子孫の吉備(きび)氏に属(ぞく)する三尾氏が存在して、『日本書紀』で従兄弟(いとこ)同士の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと;倭五狭芹彦命と同一人物)と吉備津彦を同一人物と勘違いした理由で、倭五狭芹彦命と祖別命が別人で、互(たが)いの子孫に三尾氏がいたから、後世に同一人物と誤解したのだろう。
『ホツマツタエ』が記す垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)の吉備(きび)王国平定は、古代天皇家の邪馬台国(やまとこく;奈良県の大和国)から見て、西国(さいごく;西(にし)の国々の兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)の反乱と理解しやすい言葉で、2026年1月18日の午前11時頃に西国反乱(さいごくはんらん)と改訂して、2026年8月1日から4日にかけて、西国反乱が垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月頃)以前から始(はじ)まって、岡山県倉敷(くらしき)市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)が日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)と特定した。
『ホツマツタエ』の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年)は、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)が正しいと特定して、『ホツマツタエ』が西暦年を使用すると証明して、垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月頃)に垂仁天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったのを垂仁天皇の息子の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の戦死と特定して、西国反乱(さいごくはんらん)が垂仁天皇29年(西暦180年)でなく、垂仁天皇28年から29年(西暦179年から180年)の戦争と確定した。
西暦180年に吉備国王の温羅(うら)を殺した吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇90年2月(正しくは垂仁(すいにん)天皇30年2月;西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命と同一人物)として、日高見(ひたかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国(古代中国の後漢(ごかん)王朝)に遣使(けんし;遣漢使:けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)して、西国反乱が垂仁天皇29年(西暦180年)に終戦したと証明した。
上記の時系列順は、前後関係がどこまで正しいか不明だが、僕が西国反乱(さいごくはんらん)を特定して行く段階を記して、西国反乱(さいごくはんらん)を日本神話に神話化せず、僕の認識力で正しく理解できなかった一因で、後に西国反乱(さいごくはんらん)が倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)と並(なら)ぶ国家存亡の大戦争で、古代天皇家で史上最大規模の戦争の一つと特定するなど、自分の凄(すさ)まじすぎる超感覚に恐怖して、嫌(いや)になることも多い。

垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月頃)に垂仁天皇と2番目の皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと;諱(いみな)が良子:よしこ)と倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこ)と倭稚屋姫命(やまとわかやひめのみこと)の3つ子を生んで、綺戸辺(かまはだとべ;樺井月姫と同一人物)が磐衝別命(いわつくわけのみこと;倭五狭芹彦命と同一人物で、諱(いみな)が鳥彦;とりひこ)を生んで、諱の鳥彦が鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命と同一人物)と合致した。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月頃)に垂仁天皇と妾(めかけ)の糸姫(はえひめ;迦具夜姫(かぐやひめ)を祖先化)は、吉備津彦(きびつひこ)の兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の3つ子を生んだ。
糸は、「糸」へんに互で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

垂仁(すいにん)天皇27年8月7日(西暦178年9月頃)に垂仁(すいにん)天皇は、兵器を神々に献上することを占(うらな)って、吉相(きっそう)が出たので、弓矢や太刀を諸社に納めて、これより神部(かんべ;神祇官(じんぎかん;朝廷の祭祀(さいし)を司(つかさど)る官庁名)の部民)を定めて、おりあるごとに兵器を祭り始(はじ)めて、崇神(すじん)天皇7年(西暦90年)に創建(そうけん)された石上(いそのかみ)神宮が間違いで、この時に石上神宮を物部(もののべ)氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと;物部十市根(もののべのといちね)を祖先化)が創建して、古代天皇家が武力強化した。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の日本語読みの大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)は、「太瓊(ふとに)」が太玉命(ふとだまのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)でなく、布津御霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を指(さ)して、垂仁天皇27年8月7日(西暦178年9月頃)に出雲王家(物部(もののべ)氏)の伊香色雄命(いかがしこおのみこと;物部十市根(もののべのといちね)を祖先化)が奈良県天理(てんり)市の石上(いそのかみ)神宮を創建(そうけん)したことを指すと考えられる。

吉備(きび;現在の岡山県と広島間東部でなく、古代の岡山県)国王の温羅(うら)は、古代天皇家の武力強化を危険視して、垂仁(すいにん)天皇28年前半(西暦179年前半)に同盟関係を求めて、古代天皇家の領土か不明の播磨(はりま;兵庫県西南部)と、沈(ち)の口(くち;山陰道の入り口)の伯耆(ほうき;鳥取県西部)にいる反乱分子と、島根県松江市の出雲王家(物部(もののべ)氏)の西(にし)である斐伊川(ひいかわ;島根県出雲市を流れる川)の武将(古代天皇家の任命した武将か、反乱分子か不明)と、島根県の隠岐島(おきのしま)の鬼である黄魃鬼(こうばつき)が敵対勢力の同盟を結(むす)んだ。
出雲(いずも;島根県東部)王国(物部(もののべ)氏)の3代目出雲国王(当主)の野見宿禰(のみのすくね)は、島根県松江市側から脱出(だっしゅつ)したか、元々が奈良県にいたか不明で、西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)を討伐するため、兵庫県南部と鳥取県西部と島根県東部の総大将が野見宿禰(忌部主(いんべぬし)と同一人物)で、副将が皇子の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)である。
副将の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、島根県の隠岐島(おきのしま)の黄魃鬼(こうばつき)を殺して、海上の航路を確保して、垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月頃)に16才の鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命と同一人物)が岡山市付近で戦死して、垂仁(すいにん)天皇28年11月2日(西暦179年12月頃)に身狭(むさ;岡山市北区牟佐(むさ)付近)の桃花鳥坂(築坂;つきさか:墓(はか)の名前)に葬礼して、岡山市付近の弥生時代後期後半に築造した墳墓(ふんぼ)に当たると考えられる。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年;西暦180年)の副将の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、垂仁天皇28年10月5日(西暦179年11月頃)に鳥取県西伯郡(さいはくぐん)伯耆町(ほうきちょう)の鬼住山(きずみやま)の兄弟鬼2人と戦争して、戦死した鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命と同一人物)が間違いで、岡山市にいる鬼(吉備(きび)国王)の温羅(うら)に殺されたと考えられて、前後関係の年代修正や記述解釈などが大切で、超天才の僕を騙(だま)せない。

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月頃)は、垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなって、11月2日(12月頃)に亡骸(なきがら)を桃花鳥坂(築坂;つきさか:墓(はか)の名前)に葬礼して、先例に従って従者を生き埋めにすると、埋められた人々が叫びうめきながら死んで、その死体を犬が掘り出して鳥がついばんで、垂仁天皇がそれを聞いて哀(あわ)れに思って、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「生きる者に恵みを与える所か殺してしまうのが痛ましい限りで、古(いにしえ)の先例も悪例を廃(はい)すべきだろう」と。
主人を葬(ほうむ)った後に従者を生き埋めにする殉死(じゅんし)は、弥生時代後期の近畿地方から島根県東部まで許可して、『三国志・魏志倭人伝』が「徇葬者(じゅんそうしゃ)奴婢(ぬひ)百余人」と記して、景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳で、殉死者(じゅんししゃ)百人余(あま)りの代わりに埴輪(はにわ)を立てたと解釈できて、箸墓古墳出土の最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)に当たって、弥生時代後期後半に築造した岡山県倉敷(くらしき)市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)出土の特殊器台(きだい)土器を後世に最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)と再認識することになる。
『日本書紀』の倭彦命(やまとひこのみこと)は、身狭(むさ)の桃花鳥坂(築坂;つきさか:墓(はか)の名前)に葬礼して、身狭が奈良県橿原(かしはら)市の畝傍山(うねびやま)の南および南東一帯を指(さ)す古代地名で、橿原市の桝山(ますやま)古墳に当たるが、身狭が岡山市北区牟佐(むさ)を指すのが正しくて、弥生時代後期後半(西暦180年頃)に築造した倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)の墓(はか)である岡山市付近の弥生時代後期後半に築造した墳墓(ふんぼ)が正しくて、殉死(じゅんし)を西暦80年代前半から、垂仁(すいにん)天皇28年(西暦179年)まで実行したと考えられる。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年;西暦180年)は、異母兄の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)が副将で、また異母弟(3つ子)の長男の兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)で、三男の弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)で、次男の彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)を伯耆(ほうき;鳥取県西部)に派遣した。
上記の「また」は、並列的な関係にある事柄を列挙したり、追加情報を伝える際などに適した接続詞で、異母兄の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)と異母弟の3つ子が同時に参戦したか、倭五狭芹彦命が戦死した後に岡山市付近から、奈良県に使者を派遣して、異母弟の3つ子を指揮官の武将として呼び寄(よ)せたか、『ホツマツタエ』の記述の解釈が難(むずか)しくて、簡単に判断できなくて、岡山市にいる鬼(吉備(きび)国王)の温羅(うら)討伐に季節や、月日の記述がなくて、もっと判断しにくいが、僕の予測だと年数を西暦180年に跨(また)ぐと考えられる。
鳥取県西伯郡(さいはくぐん)伯耆町(ほうきちょう)の鬼住山(きずみやま)の兄弟鬼2人は、討伐中に鶯王(うぐいすのみこ;倭五狭芹彦命と同一人物)が戦死して、後の孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)53年(アスス暦480年;西暦180年)に兄鬼の大牛蟹(おおうしかに)の討伐中に春風が吹(ふ)いた記述から、春に討伐したと考えられて、凡人(僕以外の人間)が春を西暦180年3月から5月頃と思うが、『日本書紀』の春が1月から3月(現在の2月から4月)だから、早くても西暦180年5月頃まで、西国反乱(さいごくはんらん)の平定が続いたと考えられる。
15才の祖別命(みおやわけのみこと)は、結果的に岡山市で、吉備(きび;古代の岡山県)国王(鬼)の温羅(うら)を殺して、温羅を岡山市の吉備津(きびつ)神社に怨霊(おんりょう;怨(うら)み祟(たた)る霊魂)として祭って、温羅の鬼神や吉備冠者(きびのかんじゃ)の異称が吉備国王を連想させるなど、理由が複数存在して、岡山市の吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が温羅を殺した鬼退治伝説がおとぎ話の『桃太郎』のモデル(対象の特徴や仕組みを簡略に表(あらわ)した物;手本:てほん)である。
結果的に西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部の平定)は、皇子の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)が戦死して、異母弟の3つ子の皇子の武勇で、平定した国家存亡の危機が海路と陸路で、出雲(いずも;島根県東部)王国(物部(もののべ)氏)を挟撃(きょうげき)して、それを救援したのが古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)で、おとぎ話の『桃太郎』の鬼退治以外にも、複数の鬼退治伝説を同時に伝承して、日本国内で2番目に古(ふる)い鬼退治伝説でもある。

孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の3番目の皇后である細姫(くわしひめ;日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を祖先化)は、西国反乱(さいごくはんらん)に同行して、凶作(きょうさく)が続いて、農作物を収穫(しゅうかく)できない人々に農業技術を教(おし)えるため、岡山市付近に滞在(たいざい)して、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に亡くなって、年代不明に皇后の墓(はか)である岡山県倉敷(くらしき)市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)を築造し終(お)えた。
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬礼の時は、諸臣を集めて詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「先の兄である倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀のように殉死の例を止めるべきだが、どのように改正すれば良いか」と、それを聞いて野見宿禰(のみのすくね)が「生きる者を埋めてしまう例がまことに良からぬ物であると存じて、よく思案いたしましょう」と言って、その後に出雲の土部(はじべ)を百人ほど集めて、土偶や様々な形を土で作らせた。
そして野見宿禰(のみのすくね)は、「今より後が土で作った人を生きた人の代わりとして、陵(みささぎ)に植えて、それを今後の例としてはいかがでしょう」と、垂仁(すいにん)天皇が大いに喜(よろこ)ばれて、「お前の計(はか)らいは私の望む所で、よしよし」と埴輪(はにわ)の立物(たてもの)を後の例と定めて、野見宿禰をあつく誉(ほ)めて、埴輪造りに適した粘土質の土地を授(さず)けて、土司(つちつかさ;土師(はじ)氏)に任(にん)じられた。
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)は、間違いなく殉死者(じゅんししゃ;主人を葬(ほうむ)った後に従者を生き埋めにした人たち)の代わりに埴輪(はにわ)を立てて、古墳時代の墓(はか)の古墳に立てられた埴輪(はにわ)に当たるのが楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)の出土の特殊器台(きだい)土器で、景行(けいこう)天皇陵(景行天皇古墳)の箸墓(はしはか)古墳で、出土した最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)に移行して、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)が間違いなく、皇后の墓(はか)と断言できて、4天皇陵(4天皇古墳)以外に判明した5番目の古代皇族の墓でもある。

西暦180年に平定した吉備(きび;古代の岡山県)の統治氏族の吉備氏は、『ホツマツタエ』で兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の子孫である吉備津彦(きびつひこ;祖別命を祖先化)の子供が吉備武彦(きびたけひこ)で、西暦165年1月頃生まれの祖別命の息子である吉備武彦が父親の祖別命が古代中国の後漢(ごかん)王朝に遣使(けんし)した西暦181年までに生まれて、西暦191年4月頃に奈良県に帰国した祖別命が病死したと考えられて、西暦191年5月頃に吉備武彦の妹(おそらく異母妹)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれた。
『ホツマツタエ』の兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)は、3つ子の長男と三男の皇子で、共(とも)に吉備(きび)氏の先祖だが、伝承の食い違いが多くて、大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと;兄稚武彦命と同一人物)と若建備津日子命(わかたけきびつひこのみこと;弟稚武彦命と同一人物)とも合致して、僕の自論である『吉備(きび)氏の系図』が超重要な意味・価値を持つ。
吉備(きび)氏の先祖である祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)は、『ホツマツタエ』の吉備(きび)氏系図が正しくて、他書(たしょ;他(ほか)の書物)で吉備津彦(きびつひこ)と彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)が同一人物で、吉備津彦の弟である稚武彦(わかたけひこ)の息子が吉備武彦か、稚武彦の息子である御金友耳建日子(みすきともみみたけひこ)の息子(孫)が吉備武彦とも記して、吉備武彦の系図の混乱理由を2026年8月27日の午後6時半頃に特定して、詳細を他所(たしょ;他(ほか)の場所)に任(まか)せる。
金は、「金」へんに且で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使;けんかんし)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の養子縁組み
垂仁(すいにん)天皇28年から29年(西暦179年から180年)の西国反乱(さいごくはんらん;兵庫県南部と岡山県と鳥取県西部と島根県東部)を平定した垂仁天皇は、吉備(きび;古代の岡山県)王国を古代天皇家の領土に編入して、どのような理由で古代中国の後漢(ごかん)王朝とコンタクト(接触)したか分からないが、これが邪馬台国(やまたいこく;大和国;やまとこく)の国際デビューで、後漢王朝の歴史書『後漢書(ごかんしょ)』が魏(ぎ)王朝の歴史書『三国志(さんごくし)・魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』よりも、年代的に古いのが間違いなくて、これが邪馬台国論争の超重要な歴史書2冊である。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に垂仁天皇は、吉備(きび;古代の岡山県)王国の平定が「きっかけ」で、息子の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)に日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国(古代中国の後漢(ごかん)王朝)に大使(たいし)として、行くように命令したと考えられて、護衛に物部十市根(もののべのといちね)を選出して、『後漢書(ごかんしょ)』に「11代目・桓帝(かんてい)と12代目・霊帝(れいてい)の在位期間(西暦146年8月1日から189年5月13日)」と記す。
「11代目・桓帝(かんてい)と12代目・霊帝(れいてい)の在位期間(西暦146年8月1日から189年5月13日)」は、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日から7年7月8日(西暦156年7月頃から158年8月頃)の倭国大乱(わこくたいらん;狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱)と、垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月頃)の正式な卑弥呼(ひみこ)共立(倭姫命(やまとひめのみこと)の正式な伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)任命)と、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)の後漢(ごかん)王朝遣使(けんし;遣漢使;けんかんし)までである。
髄(ずい)王朝遣使(けんし)の遣隋使(けんずいし)と唐(とう)王朝遣使の遣唐使(けんとうし)は、古代天皇家の古代中国王朝に正式に遣使した歴史の用語で、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)の後漢(ごかん)王朝遣使も、僕が一般的に遣漢使(けんかんし)の造語(ぞうご;言葉を作(つく)ること)を使って、前漢(ぜんかん)王朝と後漢王朝が存在して、遣後漢使(けんごかんし)と呼ぶべきかもしれないが、古代天皇家が前漢王朝と後漢王朝を含(ふく)めた漢(かん)時代に遣使年(けんしねん)を把握できる唯一の実例で、僕が遣漢使と呼ぶ理由でもある。

景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に常世(とこよ)の国(古代中国の後漢(ごかん)王朝)から、奈良県に帰還した田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)は、妻の花橘(はなたちばな)と妻の父(義父;ぎふ)の元彦(もとひこ)も、一緒(いっしょ)に連(つ)れ帰(かえ)って、この親子が『ホツマツタエ』の記述の前後関係から考えて、古代中国人の可能性が高くて、人名が古代中国語読みでなく、日本語読みである。
奈良県に帰還した田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)は、父親の垂仁(すいにん)天皇が死去して、祖別命が禁止された殉死(じゅんし;死んだ主人を追(お)って、家臣や家族が後追(あとお)い自殺すること)したが、正しく求めると病死と考えられて、垂仁(すいにん)天皇陵(てんのうりょう;垂仁天皇古墳)と息子の祖別命の墓(はか)に『ホツマツタエ』の香久橘(かぐたちばな;十種(とくさ)の神宝(かんだから)に当たる)を供(そな)えたり植(う)えたが、嘘(うそ)である。
景行(けいこう)天皇元年4月末日(景行天皇元年4月31日;西暦191年5月下旬頃)の夜半に花橘(はなたちばな)が生んだ子は、景行天皇の詔(みことのり;天皇の述べた言葉)で、「田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)の魂(たま)の緒(お)をとどめる子であることによって、弟橘(おとたちばな)の名を与える」と名前を授(さず)けて、弟橘姫(おとたちばなひめ)と言って、実父(じっぷ;本当の父親)が死去して、後に出雲王家(物部(もののべ)氏)の養子になった。
崇神天皇元年1月13日(西暦84年2月頃)は、本当の日本国の建国(天皇家誕生)で、107年後の景行(けいこう)天皇元年4月末日(景行天皇元年4月31日;西暦191年5月下旬頃)に実在した2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇の孫娘(皇女)である弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれて、古代天皇家に初(はじ)めて、外国人(古代中国人)の血筋が混入(こんにゅう)したと考えられて、古代中国人や古代朝鮮人の血筋に注意が必要で、古代中国人を2026年8月27日の午後6時頃に特定した。
常世(とこよ)の国(古代中国の後漢(ごかん)王朝)から田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)は、『ホツマツタエ』の香久橘(かぐたちばな)の実(み;『日本書紀』の時非(ときじく)の香実(かぐのみ):十種(とくさ)の神宝(かんだから)に当たる)を持ち帰って、彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖とする出雲王家(物部(もののべ)氏)や海部(あまべ)氏や和珥(わに)氏などの宝物として、また男性の古代太陽神(饒速日尊(にぎはやひのみこと)と2代目・火明命(ほあかりのみこと)と天日槍(あめのひぼこ)の3神)の神宝ともした。

物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、天(てん;『ホツマツタエ』の天照神:あまてるかみ:景行(けいこう)天皇を神格化)から、死者をも生き返らせる十種(とくさ)の神宝(かんだから)を授(さず)かって、後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使;けんかんし)で、古代中国から下賜(かし)された宝物が10種類の中で、3種類(前漢鏡の邊津鏡(へつかがみ)と後漢鏡の息津鏡(おきつかがみ)と東大寺山(古墳出土)鉄刀)が判明した。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神鏡(しんきょう)は、邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)の内行花文昭明鏡で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の内行花文長宜子孫八葉鏡で、元伊勢籠神社宮司家の海部(あまべ)氏の祖先神である2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神宝(古代中国の銅鏡)で、饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王を神格化)の十種(とくさ)の神宝(かんだから)である辺津鏡(へつかがみ)と沖津鏡(おきつかがみ)と、完全に同(おな)じ物である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神鏡(しんきょう)の邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王を神格化)の神鏡の辺津鏡(へつかがみ)と沖津鏡(おきつかがみ)と、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)と神格化)の八種(やくさ)の神宝(かんだから)である2鏡(かがみ)の辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ;または1鏡(かがみ)の日鏡;ひかがみ)と完全に同(おな)じ物で、古代中国の銅鏡2枚(まい)で間違いない。
十種(とくさ)の神宝(かんだから)の八握剣(やつかのつるぎ;『ホツマツタエ』は叢雲剣:むらくもつるぎ)は、八種(やくさ)の神宝(かんだから)の胆狭浅太刀(いであさのたち)と完全に同(おな)じ物で、奈良県天理(てんり)市の和珥(わに)氏(彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖とする古代豪族)が埋葬者と考えられる東大寺山(古墳出土)鉄刀に当たって、全(すべ)て彦坐王を先祖とする結論になる。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国(古代中国の後漢(ごかん)王朝)から田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)は、『ホツマツタエ』の香久橘(かぐたちばな)の実(み;『日本書紀』の時非(ときじく)の香実(かぐのみ):十種(とくさ)の神宝(かんだから)に当たる)を持ち帰って、日本神話の神鏡(しんきょう)2枚(まい)と神剣1本が実在する前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)と後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡2枚(まい)と、東大寺山(古墳出土)鉄刀に当たる。
『ホツマツタエ』の可美真手命(うましまじのみこと;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)から、古代中国の後漢(ごかん)王朝の宝物である十種(とくさ)の神宝(かんだから)を授(さず)かって、息子の十市根(といちね)が共(とも)に物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を与(あた)えられて、物部十市根(もののべのといちね)を名乗って、物部氏の名字が景行天皇元年3月以降(西暦191年4月頃以降)に誕生したと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)に古代中国の後漢(ごかん)王朝に言った大使(たいし)の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)と護衛の物部十市根(もののべのといちね)たち数十名(古代天皇家の使者)は、垂仁天皇の命令か自発的か分からないが、暦(こよみ)の太陰太陽暦や紙作(かみづく)りの製紙業や文字の漢字などを学習して、古代天皇家(古代大和朝廷)に古代中国の文化を持ち帰(かえ)ったと考えられる。
古代天皇家の暦(こよみ)は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に持ち帰(かえ)った太陰太陽暦よりも、以前に初代天皇の崇神(すじん)天皇時代と2代目天皇の垂仁(すいにん)天皇時代の旧暦年月日を正確に伝承して、古代天皇家の独自の暦法が存在した証拠で、『ホツマツタエ』でオモイカネ(思兼神;おもいかねのかみ:物部十市根(もののべのといちね)を神格化)がヒヨミノミヤ(日読みの宮;暦(こよみ)作りの担当役)の初代などでも、活躍したと記す。
古代天皇家の紙作(かみづく)りの製紙業は、『ホツマツタエ』を景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)に献上したのが嘘(うそ)で、『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』が出雲王国(物部(もののべ)氏)の2度の内乱(皇位継承権争い)に対する贖罪(しょくざい)をまとめて、出雲王国(物部氏)の2度目の反乱(出雲王国(物部氏)の崩壊(ほうかい)で、出雲の国譲(くにゆず)り神話に神話化)が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月で、西暦246年から干支(えと)の年で、60年後の摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に『ミソギノフミ』を献上したと考えられる。
古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、遣漢使(けんかんし)が製紙法を勉強して、漢字の音読みと訓読みの開発・研究に紙(かみ)を使った可能性を考えられて、2024年6月10日の午前9時半頃に求めた。
古代天皇家の文字の漢字は、漢字以前の時代の古代文字である神代(しんだい)文字でなく、古代中国との外交用に学習したと考えられて、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に持ち帰(かえ)った漢字を神代文字に当てはめて、景行天皇元年7月11日(西暦191年8月頃)即位の景行天皇の漢字読みに当たる「景行」を作(つく)ったと考えられて、2018年に高知県南国(なんこく)市の若宮ノ東(わかみやのひがし)遺跡で、「何」と「不」の文字を刻(きざ)む弥生土器の壺(つぼ)の破片らしき「刻書(こくしょ;表面に文字を記す)土器」が出土して、弥生土器が2世紀後半から3世紀中頃で、2世紀末以降に十分当てはまる。
『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』は、4世紀初頭の摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に神功(じんぐう)皇后に献上して、2025年1月23日に公表した若宮ノ東(わかみやのひがし)遺跡の「刻書(こくしょ)土器」を3世紀前半頃の訓読みと結論付けて、何(なに)も知(し)ら不(ず)などの文章だった可能性が高くて、文字に続く文章があって、製紙業と漢字を証明すると考えられる。
淡路島(あわじしま)と四国(しこく)東部(香川県と徳島県)の平定は、崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月頃)までに終了して、垂仁(すいにん)天皇31年から景行(けいこう)天皇11年(西暦181年から201年)までの間(あいだ)に土佐国(とさのくに;高知県)の賊徒が反乱して、勅命(ちょくめい)で彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命を祖先化)を伊予国(いよのくに;愛媛県)に派遣して、派遣が応援の意味で、愛媛県に加勢するために行って、愛媛県が古代天皇家の領土と考えられて、『三国志・魏志倭人伝』で、投馬国(とうまこく;土佐国)が西暦239年までに古代天皇家の領土である。

景行(けいこう)天皇2年8月1日(西暦192年9月頃)に景行天皇は、花橘(はなたちばな)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)を夫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)によく似た押山(おしやま;出雲王家(物部(もののべ)氏)の3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)と同一人物)の妻子にする命令をして、景行天皇が深(ふか)い恵(めぐ)みを示(しめ)されて、後の養子縁組(えんぐ)みの実例になった。
景行(けいこう)天皇14年3月15日(西暦204年4月頃)に弟橘姫(おとたちばなひめ)は、13才で景行天皇と結婚して、景行(けいこう)天皇19年(西暦209年)までに息子2人と、3つ子の娘3人を生んで、景行(けいこう)天皇27年1月12日(西暦217年2月頃)に26才で、景行天皇の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)との不倫(ふりん)が発覚(はっかく)して、後に夫(おっと)の日本武尊との間(あいだ)に7人の息子を生んだ。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の子孫は、平安時代の藤原(ふじわら)氏、日本神話の宗像三女神(むなかたさんじょしん)、出雲王家(物部(もののべ)氏)の6代目と7代目の出雲国王、その子孫の出雲大社宮司家である千家(せんげ)氏と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の竹内(たけうち)氏などが生まれて、日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の子孫をしっかり特定してないが、多くの家系が生まれたはずである。

2代目天皇の墓(はか;垂仁(すいにん)天皇陵(てんのうりょう):垂仁天皇古墳)
宮内庁指定の垂仁(すいにん)天皇陵は、奈良市の4世紀中頃の築造と考えられる全長227メートルの前方後円墳の宝来山(ほうらいやま)古墳だが、正しい証拠など一切ない。
垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月頃)に垂仁天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月頃)の夜に墓(はか;纏向石塚(まきむくいしづか)古墳)に埴輪(はにわ)を立てて、墳丘(ふんきゅう)全体を発掘調査してないなら、特殊器台埴輪(きだいはにわ)を確認できないのが当然で、全体の発掘調査のネット情報がなくて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を纏向石塚古墳に葬礼した。
垂仁(すいにん)天皇古墳の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳は、考古学(遺跡・遺物)で最古の古墳で、最古の前方後円墳とする学説があるが、超天才の僕が父親の崇神(すじん)天皇古墳の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)を最古の前方後円墳に定義付けたいと考えて、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月頃)に亡くなった日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を岡山県倉敷(くらしき)市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)に葬礼して、墓(はか)に最古の埴輪(はにわ)の特殊器台(きだい)土器を立てて、纏向石塚古墳で特殊器台埴輪(きだいはにわ)が出土すると考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か、仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の息子の景行(けいこう)天皇を葬礼した箸墓(はしはか)古墳(景行天皇古墳)は、考古学(遺跡・遺物)で最古の特殊器台埴輪(きだいはにわ)が出土して、父親の垂仁天皇古墳の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳で、年代順の特殊器台埴輪の出土を証明するはずで、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が完全に合致した。

前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、最古が香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡で、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)で、次(つぎ)が垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月頃)に葬礼した初代天皇の崇神(すじん)天皇陵(崇神天皇古墳)が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、他(ほか)に兵庫県赤穂(あこう)市の有年原田中(うねはらたなか)遺跡が2世紀後半頃で、大阪市の長原(ながはら)遺跡と滋賀県長浜(ながはま)市の五村(ごむら)遺跡が3世紀初頭頃で、前方後円墳の原形の墳丘墓(ふんきゅうぼ)である。
岐阜県揖斐(いび)郡大野町の笹山(ささやま)古墳は、西暦200年頃の築造で、東日本の最古の前方後円墳で、崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)か、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)が古墳埋葬者の可能性があって、2026年8月16日の午前4時台に修正して、纏向石塚(まきむくいしづか)古墳の築造年代を上回る可能性がある。
四国の最古の前方後円墳は、徳島県鳴門(なると)市の荻原(おぎわら)2号墳で、築造が2世紀末から3世紀初頭で、纏向石塚(まきむくいしづか)古墳の築造年代を上回る可能性があって、『日本書紀』の崇神(すじん)天皇17年(西暦100年)に四国の平定を記して、それを考古学的(遺跡・遺物)に証明した。
中国地方の最古の前方後円墳は、鳥取県西伯(さいはく)郡南部(なんぶ)町の浅井11号墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造で、西暦95年に出雲王国を建国(物部(もののべ)氏の誕生)して、2世紀後半から3世紀初頭の前方後円墳が出雲(いずも;島根県東部)で発見される可能性があって、西暦191年1月頃築造の垂仁(すいにん)天皇陵である最古の前方後円墳の纒向石塚(まきむくいしづか)古墳よりも、古い前方後円墳が出土してもおかしくない。
上記の実例は、前方後円墳の定義付けそのものを見直す「きっかけ」にするべきで、国家規模(日本国内)での認識の変革が必要で、日本国政府が発行する歴史教科書の書き直しや、専門家(考古学会と歴史学会)の大革命なども必要で、天皇家(皇族)も先祖(祖先神や古代天皇家の人々)に対する認識を改善する必要があって、日本中や世界中の国々や人々に革命をもたらす瞬間が近(ちか)づいた。

まとめ
このように僕の超知識は、世界中でただ一人の奇跡を起(お)こして、僕を「古代日本史(古代天皇家の歴史)の父」や、「現代歴史学(歴史書解釈)の父」と呼んでも、不思議でない大偉業で、その能力が人類史上最高最強最大最速で、日本神話の神々が実在した物と人物を神格化して、人類史上唯一の神様を正しく理解した初(はじ)めての人間とも言えて、あまりに規格外な超越者で、現実離れしすぎた超天才でもある。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
『先代旧事本紀 訓註』
著者・大野七三 発行・批評社
『正統『竹内文書』の謎』
著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング
インターネットの不明サイトから少々拝借
他の多くの史料を省略

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