3つの朝日新聞記事
僕が自己分析した朝日新聞記事は、2009年5月29日と2009年11月11日と2010年3月25日の3つで、最近の僕自身が推(お)し進める歴史研究の大規模変革の一環で、別々の3つのファイルを一つに統合して、3つの記述内容が原文のままで、2026年2月13日(金)の午前10時20分に修正し終えた。
2009年5月29日の朝日新聞記事
この日の朝日新聞記事は、全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳が放射性炭素年代測定で、西暦250年代の築造の可能性が高まったと記して、西暦252年に葬礼した景行(けいこう)天皇陵の公算が高くなった。
箸墓(はしはか)古墳から出土した土器は、付着した穀物などの炭化物を用いて、全国の3千点を超す土器と対比して、放射性炭素年代測定で調査して、箸墓(はしはか)古墳の築造年代をしぼり込んだと言う。
放射性炭素年代測定は、世界中の考古学界でよく用いる方法で、その精度が高く信頼性もあって重宝(ちょうほう)して、箸墓(はしはか)古墳の場合だと慎重になる必要があるとの意見を出す学者もいるが、僕の意見を言うと間違いなく信頼できて、箸墓(はしはか)古墳の埋葬者を特定するのに重要な結果である。
現代人(僕以外の人間)や考古学会は、箸墓(はしはか)古墳が3世紀後半から4世紀前半頃の築造年代で、女王の卑弥呼(ひみこ)や台与(とよ)の墓(はか)と考えて、完全な憶測や推測にすぎなくて、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の基本の基本も理解できてない。
「記紀」は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼(ひみこ)を思わせて、箸墓(はしはか)古墳の埋葬者と思い込ませて、うまく誘導したが、僕が倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化して、作られた実在しない人物と特定して、箸墓(はしはか)古墳の埋葬者でないと証明した。
『ホツマツタエ』のヤマトヒメは、異母弟が景行(けいこう)天皇で、『三国志・魏志倭人伝』が卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)で、『ホツマツタエ』と『三国志・魏志倭人伝』の姉弟関係が合致して、日中の歴史書の一致を証明した。
『三国志・魏志倭人伝』は、「卑彌呼(ひみこ)以死、大乍冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と記して、卑弥呼(ひみこ)のヤマトヒメの墓(はか)と勘違いするが、僕が男弟(だんてい;異母弟)の墓(はか)の景行(けいこう)天皇陵と断言する。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、天皇不在の年10月7日(西暦251年11月上旬頃)にヤマトヒメが殺されて、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇を箸墓(はしはか)古墳に葬礼した。
男弟(だんてい)の景行(けいこう)天皇陵の冢(つか;箸墓(はしはか)古墳)は、直径百歩余り(直径144メートル)前後…後円部150メートルで、殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者を強制的に殺すこと)者の代わりに埴輪(はにわ)百個ほどを立てたと解釈できる。
考古学で最古の埴輪(はにわ)は、箸墓(はしはか)古墳から出土した最古の特殊器台埴輪(はにわ)で、垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳で、歴史学(歴史書解釈)で最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)を確認して、殉死(じゅんし)が史実・真実・事実と証明した。
景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳は、天皇陵クラスの古墳でなく、天皇陵そのものと証明して、卑弥呼(ひみこ)のヤマトヒメの墓(はか)と勘違いして、『三国志・魏志倭人伝』の記述の直径と殉死(じゅんし)が正しくて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の合致を完全に証明した。
放射性炭素年代測定で箸墓(はしはか)古墳の西暦250年代築造の可能性は、卑弥呼(ひみこ)のヤマトヒメの墓(はか)でなく、景行(けいこう)天皇陵を完全に証明して、専門家(考古学会と歴史学会)のレベルが全く追いつかず、僕の超頭脳(超感覚)レベルが偉大すぎて特定できて、正しく理解しないといけない。
箸墓(はしはか)古墳の痕跡(こんせき)は、歴史研究で超天才の僕を騙(だま)せなくて、どんなに僅(わず)かな違和感にも気付いて、特定するのに十分なヒントだった。
<参考文献>
2009年5月29日の朝日新聞記事
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『日本古代史事典』
著者・多数 発行・大和書房
インターネットの不明サイトから少々拝借
2009年11月11日の朝日新聞記事
この日の朝日新聞記事は、2世紀末から4世紀前半の纏向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の大型建物跡1棟が出土して、同時代の建物で国内最大の面積で、周辺で以前に発見した3棟と共に、中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置がされたと記す。
大型建物跡は、南北19・2メートルの東西12・4メートルで、床面積が238平方メートルと推定して、柱穴13個(直径23から38センチメートル)がその間に一回り小さい柱穴9個(直径23から25センチメートル)があって、南北の柱間(約4・8メートル)を支える束柱と考えられて、東西の柱間(約3・1メートル)になかったと言う。出土した柱穴群の西側は、後世の6世紀に作られた溝で削られたが、見つかった穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱があったと判断して、今回と以前の出土した大型建物跡がつながっていたと考えられる。
1978年と2008年の調査は、3世紀前の小中規模の建物跡3棟が出土して、大型建物跡と同じ方向を向いて、中軸線も東西の同一直線上に並んで、周囲から総延長40メートル以上の柵列も出土して、大型建物跡など東側の3棟が柵内に区画したと考えられて、計画的に配置した建物群が飛鳥時代の宮殿や寺で一般化するが、今回が最古の例と言う。
大型建物跡の一部は、方形周溝墓(しゅうこうぼ)と考えられるL字形の溝で壊されて、溝から3世紀中頃の土器が出土して、大型建物跡が3世紀前半と求められたが、土器の時期が間違いなら遺跡の年代推定も狂って、纏向(まきむく)遺跡が全体の5%程度しか発掘されていないため、同規模の建物跡が十分に出土する可能性がある。
纏向(まきむく)遺跡は、卑弥呼(ひみこ)の宮殿でないかと騒ぐが、女王国(伊勢国;三重県中部)の卑弥呼(ひみこ)が皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)でなく、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)である景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に当たって、大型建物跡が景行(けいこう)天皇の寝所(しんじょ)か宮殿などの可能性がある。
纏向(まきむく)遺跡は、これまで宮殿などの大型建物跡が出土せず、そこが畿内説の弱点とされたが、今回の発見が同規模クラスの建物跡が多く出る可能性を高めて、纏向(まきむく)遺跡が全体の5%程度しか発掘してないためで、今回の発見が4棟の中軸線が同一直線上に並んで、3世紀で例のない構造で、何らかの特別な意味を持つ。
今回の大型建物跡は、古代中国の南北を主軸とする思想と違って、日本古来の東西を縦方向の主軸とする太陽信仰に基づくと考えられて、中軸線を東に延長すると、巻向山(まきむくやま)に至って、巻向山(まきむくやま)を背にして大型建物跡が立つ。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の王宮と早合点する考古学会は、卑弥呼(ひみこ)の宮殿と勘違いして、景行(けいこう)天皇の王宮の可能性があるが、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争そのものを勘違いした現代人(僕以外の人間)レベルの専門家(考古学会と歴史学会)の認識力で、超天才の僕に喧嘩(けんか)を売る馬鹿である。
3世紀後半までの大型建物跡は、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の高床式の大型建物跡で2世紀の約156平方メートル、愛媛県松山市にある樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡の掘立(ほったて)柱の大型建物跡で3世紀の約162平方メートルなどがあるが、纏向(まきむく)遺跡の大型建物跡の約238平方メートルに及ばない。
纏向(まきむく)遺跡の大型建物跡は、同時代の建物で国内最大の面積で、弥生時代後期から古墳時代初頭の頃と考えられて、纏向(まきむく)遺跡も大きい面積の遺跡がそう簡単に見つからなくて、纏向(まきむく)遺跡が皇居だから当然である。
纏向(まきむく)遺跡は、2世紀末から4世紀前半の都市遺跡で、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に間違いなくて、景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇が皇居に入って、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が5代目天皇に即位した時まで、都(みやこ)として機能したと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇の即位後は、歴代天皇の皇居や天皇陵と皇族陵を放棄して、都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡と大和(おおやまと)古墳群が考古学的に衰退した時期と合致して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の一致を証明した。
大型建物跡は、景行(けいこう)天皇や有力豪族の暮らす宮殿か景行(けいこう)天皇と豪族らが政治をした集会所などの可能性があるが、決定的な遺物が発見されたか分からなくて、景行(けいこう)天皇が皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)にいた西暦194年から248年に収まる建物跡と考えられて、そこからある程度の予測をするしかない。
景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)は、大型建物跡と同規模の建物が列挙した可能性があって、邪馬台国(やまとこく;大和国)の王都の中枢(ちゅうすう)と証明された。
『三国志・魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみこ)の宮殿と物見櫓(ものみやぐら)と城柵などの記述は、女王国(伊勢国;三重県中部)の元伊勢の磯(いそ)神社に当たって、奈良県の邪馬台国(大和国;やまとこく)の皇居である纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が纏向(まきむく)遺跡で、三重県中部の女王国(伊勢国)と奈良県の邪馬台国(大和国;やまとこく)が合致するはずがない。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇20年(西暦210年)に斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)の交代は、八十物部(やそもののべ)が伊勢神宮内宮を守る兵士と考えられて、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を守る物見櫓(ものみやぐら)と城柵が歴史学(歴史書解釈)の伊勢神宮内宮の武装を証明した。
この新聞記事の纏向(まきむく)遺跡の出土は、最古の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が後世の皇居の藤原京や平城京にも勝(まさ)るとも劣(おとら)らない都市遺跡で、大型建物跡が幾つか立ち並ぶ可能性を示して、邪馬台国(やまとこく;大和国)の王都として、非常に重要な発見だった。
<参考文献>
2009年11月11日の朝日新聞記事
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』
著者・石野博信 発行・株式会社新泉社
インターネットの不明サイトから少々拝借
2010年3月25日の朝日新聞記事
この日の朝日新聞記事は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都で、2世紀末から4世紀前半の纏向(まきむく)遺跡のシンポジウムが2010年3月20日にあったと記して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争が始まって100年目が2010年で、史実・真実・事実を完全に求めて、超天才の僕の膨大な超知識や超頭脳(超感覚)のおかげで、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の畿内説と九州説などを明確に決着した。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、古代日本史の最大の謎(なぞ)と言うが、現代人(僕以外の人間)レベルの専門家(考古学会と歴史学会)のシロウト認識が生み出した難問で、超天才の僕が歴史研究して約半年で、完全に解明して、王墓(天皇陵)と王都(皇居)の特定が2004年11月より前か証明できないけれど、僕の超越した認識力の凄(すさ)まじさを知れる。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、シロウト認識の専門家(考古学会と歴史学会)が一生かかってもひもとけなくて、超天才の僕におんぶにだっこで、畿内説と九州説を決着して、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の人物と西暦年月などを古代天皇家の出来事と合致して、全てを求められる神レベルで、一から百まで理解した超知識である。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代は、『三国志・魏志倭人伝』の記述があって、神功(じんぐう)皇后が卑弥呼(ひみこ)と考えさせて、『日本書紀』の編者の偽装工作で、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)を女王と勘違いさせて、古代天皇家の畿内説と無関係の九州説などを想像させるためだった。
3世紀末までに記した『三国志・魏志倭人伝』は、魏王朝の次の西晋(せいしん)王朝に遣使した西暦266年が邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の終わりで、3世紀中に『三国志・魏志倭人伝』を記して、信頼性が高いのが考えるまでもないが、後世に記した『梁書倭伝』などを参考にして、信頼性が低いと気付かないならば、その程度の浅はかな認識力である。
現代人(僕以外の人間)は、崇神(すじん)天皇が3世紀中頃で、日本武尊(やまとたけのみこと)と神功(じんぐう)皇后が4世紀で、5世紀の倭(わ)の五王が応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいると考えて、シロウト認識の勘違いで、僕の足下にも及ばない。
超天才の僕の自論は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の数十個程度が合致して、垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(266年)の西晋(せいしん)王朝の遣使まで特定して、2003年7月頃に即位年干支法(そくいねんかんしほう)を命名して、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の西暦年を特定して、まさに神技(かみわざ)だった。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の畿内説と九州説は、300年以上前の新井白石が両方を唱えて、1910年(明治43年)に東大と京大が論争して、今年2024年が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の114年目で、超天才の僕が古代天皇家の大和国(邪馬台国;やまとこく)と確定して、100%完全に間違いない。
卑弥呼(ひみこ;倭姫命:やまとひめのみこと)の後に記す男王(だんおう)は、逆賊の日本武(やまとたけ)天皇で、悲劇的英雄で死んだ日本武尊(やまとたけのみこと)が嘘(うそ)で、「記紀」が作って騙(だま)した偽装工作で、現代人(僕以外の人間)のシロウト認識が神レベルの僕の認識力に及ばなくて、一生かかっても絶対に勝てない。
専門家(考古学会と歴史学会)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の古代天皇家(大和朝廷)説に踏み込めないのでなく、全く求められないシロウト認識にすぎなくて、超天才の僕しか考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を合致できなくて、それを認められないお子様レベルが、凡人(僕以外の人間)の現実問題である。
景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡は、周辺に多くの大型古墳(大和(おおやまと)古墳群など)があって、宮内庁指定陵の発掘不可能や考古学会の怠慢などが原因で、古墳の発掘調査が進まない現状で、年代特定などが困難で、考古学的な調査が進展しない。
専門家(考古学会と歴史学会)を含む凡人(僕以外の人間)は、日本神話や邪馬台国(大和国;やまとこく)論争や倭(わ)の五王を求められなくて、皇室や宮内庁や日本人や世界中の人々などの認識力の問題で、超天才の僕の超知識が規格外で、全てを求めた答えを示して、あまりにも困惑する状況にある。
卑弥呼(ひみこ)の銅鏡と勘違いする三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、僕の暮らす京都府福知山市出土の景初四年鏡など2面から国産説が考えられて、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が古代中国産説か国産説を議論して、どんなに研究して無意味で、超天才の僕が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を決着して、分からなくても大きく影響しない。
古代中国の魏(ぎ)王朝は、卑弥呼(ひみこ)が男性と勘違いしたと記すが、女王の卑弥呼(ひみこ)と記して、女性と断言して、無理矢理に男性と決め付けて、現代人(僕以外の人間)の拡大解釈で、拡大解釈が僕の自論にも見られる人間の自然な考え方で、超天才の認識力の僕でも他の全ての人間でも、逃げられない人間の本能が拡大解釈と考えられる。
卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)から景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)まで2代目の伊勢神宮の斎王(太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)で、隠居しても太陽神を祭って、男装した事実も男性に間違われたことがなくて、史実・真実・事実が分かる。
邪馬台国(大和国;やまとこく)までの通路は、専門家(考古学会と歴史学会)が北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説(新井白石の学説)を常識とするが、対比地名を古代中国語読みでなく、現代日本語読みして、方角なども滅茶苦茶で、100%間違いと僕の自論が証明して、僕が歴史研究を始めて約半年で、完全に決着した史実・真実・事実である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の通路は、超天才の僕が『三国志・魏志倭人伝』を直接に現代日本語訳して、時代の最先端の教本を作って、日中の歴史書や他人の『三国志・魏志倭人伝』の訳本が役立たなくて、シロウト認識の専門家(考古学会と歴史学会)に参考本を作れなくて、僕の凄(すさ)まじすぎる超頭脳(超感覚)を見せつけた。
奈良県桜井茶臼山の三輪山(みわやま)周辺は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の崇神(すじん)天皇から景行(けいこう)天皇まで3世代の皇居や天皇陵があって、超天才の僕が考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を証明して、5世紀の倭(わ)の五王も安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇と証明して、史実・真実・事実が判明した。
つまり「記紀」や『三国志・魏志倭人伝』などの日中の歴史書は、基本的に全ての信頼性を疑って、根本的な考え方そのものを本当か嘘(うそ)か見抜いて、基本的な性能や考え方などが違いすぎる僕が正しくて、正しいか間違いか考える判断力が超人レベルでない現代人(僕以外の人間)が絶対に僕に勝てない。
基本的な僕の超頭脳(超感覚)は、幼少から歴史研究を始めた2002年10月頃まで、21年半以上も歴史研究した2つの人生経験が重要で、根本的に凡人(僕以外の人間)の人生経験と全く別物で、僕の43年以上の半生で、生み出された超天才の感性が一生かけても、誰もまねできない僕だけの特別な超感性を体得して、古代天皇家の正史(正しい歴史)を特定する奇跡が起きた。
偶然に歴史研究を始めた僕は、世界中の誰も持たない考え方や超知識を生み出して、自分の超感覚や超頭脳を知らないうちに成長させて、結果的に人類史上最高の大偉業と言える古代天皇家の正史(正しい歴史)を求めて、予想もしない未来を作り上げる運命や宿命の元に生きて、本当のアメリカンドリームと言える奇跡である。
古代から存在した巻向山(まきむくやま)は、纏向村(まきむくむら)の地名が1889年(明治22年)に初めて名付けられて、考古学界が(景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡や垂仁(すいにん)天皇陵の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳などを名付けて、纏向(まきむく)の名前が偶然から必然になった。
巻向山(まきむくやま)と纏向(まきむく)の名前は、切っても切れない絆(きずな)で、古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)の歴史そのもので、今の皇室まで直接につながる奇跡だった。
奈良県桜井市の三輪山(みわやま)は、祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)が大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)・・・7人の出雲国王を神格化して、初代・崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)が物部(もののべ)氏の始祖で、三輪山(みわやま)と大物主神(おおものぬしのかみ)の深い関係を隠したが、超天才の僕が再現した。
桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳は、4世紀初頭の築造年代で、大量の銅鏡が出土して、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)も出土して、仲哀(ちゅうあい)天皇や神功(じんぐう)皇后の世代に近い古代天皇家の人物を埋葬した可能性が高くて、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の考古学的証拠である。
垂仁(すいにん)天皇陵の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳と景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡と景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳は、僕が求めた古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代から、今の皇室と無関係でなくて、直系先祖の財産を考古学(遺跡・遺物)で証明して、100%完全に特定した。
卑弥呼(ひみこ)がもらったと勘違いする「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印は、景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳などから出土せず、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年以降の古墳から出土する公算が高くて、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印が海に沈んだ可能性などもゼロでなく、邪馬台国(大和国;やまとこく)に持ち帰ってない可能性も考えられて、絶対があり得ない。
纏向(まきむく)遺跡の出土品は、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印や「封泥(ふうでい;古代中国の貴重品を封印する押印をした粘土の塊(かたまり)」などでなく、3世紀前半の大型建物跡や関東地方から九州の土器が出土して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)と証明した。
纏向(まきむく)遺跡は、2世紀末から4世紀前半の都市遺跡で、景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇が皇居に入って、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に5代目の仁徳(にんとく)天皇が即位した時まで、都(みやこ)として機能したと考古学(遺跡の年代)と歴史学(歴史書の年代)が完全に証明した。
纏向(まきむく)遺跡と大和(おおやまと)古墳群は、間違いなく皇居と皇族陵で、保存・研究・活用・公表が重要だが、それを支える専門家(考古学会と歴史学会)の能力が心もとなくて、日本国政府や政治家たちがしっかり動いて、国家規模での対応が重視されて、認識を改める必要がある。
纏向(まきむく)遺跡は、唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡や吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の7から8倍の面積で、大和(おおやまと)古墳群とほぼ同時期に出現して、古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代を証明して、纏向(まきむく)遺跡の3世紀前半の大型建物跡が卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の宮殿でなく、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇の寝所(しんじょ)かもしれなくて、正しい認識が必要である。
纏向(まきむく)遺跡は、大量の祭祀土坑群や国内最古の紅花(べにばな)の花粉などが出土して、皇居の祭りが盛大に行われた痕跡(こんせき)で、これからもっと多くの祭りの証拠が見つかって、政治・宗教の中枢として信頼性が高まると考えられて、専門家(考古学会と歴史学会)の重要性をしっかり認識して、今の皇室を支える必要がある。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の未来は、今世(こんせ)の専門家(考古学会と歴史学会)のシロウト認識を改めて、皇室の直系先祖から受け継いだ遺産で、考古学的に大切に守る重要な神宝と理解して、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の直接的なつながりを後世に伝える必要がある。
<参考文献>
2010年3月25日の朝日新聞記事
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』
著者・石野博信 発行・株式会社新泉社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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